王璡

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王 璡(おう しん、生年不詳 - 1426年)は、明代学者官僚は器之。本貫莒州日照県

生涯[編集]

経書史書に広く通じ、『春秋』を最も得意とした。はじめ教授となり、事件に連座して遠方に流された。洪武末年、賢能として推薦され、寧波府知府に任じられた。靖難の変が起こり、燕王軍が長江に迫ると、王璡は戦艦を建造して建文帝を守ろうと図った。衛兵に捕縛されて南京に連行された。永楽帝に罪を問われず、釈放されて郷里に帰った。後に翰林院侍講・承直郎となった[1]1426年宣徳元年)3月乙未、死去した[2]

人物・逸話[編集]

  • 王璡は夜の四鼓(午前2時ごろ)にろうそくを手に取って読書し、音読の声が署外に聞こえた。学課の諸生たちが訪れるようになり、読み習って怠ることがなかった。
  • 王璡は寧波府内の淫祠を破壊したが、破壊した中に三皇祠が含まれており、ある人がこれに異議を唱えた。王璡は「祀るべきでない祠を淫といい、祀ることのできない祠を瀆という。ただ天子だけが三皇を祀ることができるので、士人や庶民は参加できない。破壊したことに何の疑義があろうか」といった。
  • 王璡は倹約の生活を守っていた。ある日、供え物用の魚羹(魚のスープ)があったが、王璡はその妻に「おまえはわたしが草の根を食べたときのことを覚えているか」といい、命じてこれを埋めさせた。このため当時の人に「埋羹太守」と呼ばれた。
  • 王璡は捕らえられて連行され、永楽帝に「戦艦を造ったのは何のためだ」と問われた。王璡は「海に浮かべて瓜洲に進み、軍の南渡を阻もうとしただけです」と答えた。

脚注[編集]

  1. ^ 周閎墓誌
  2. ^ 談遷国榷』巻19

参考文献[編集]

  • 明史』巻143 列伝第31