法経

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法経(ほうけい)は、戦国時代李悝が編纂したとされる法典。その実在・非実在については議論がある。

概要[編集]

文侯に仕えていた李悝が紀元前407年に諸国の法を参考にして盗法・賊法・囚法・捕法・雑法・具法の6篇の法典に編纂したとされている。盗法・賊法は盗賊に関する法令で、囚法・捕法は盗賊の逮捕・拘禁に関する法令、雑法は詐欺・賭博・汚職などの犯罪に関する法令、具法は刑の加重軽減に関する法令で後世の刑法総則に近い。後に商鞅が法経を持ってに入り、一部手直しした上でほぼそのまま秦の法令(秦の『法経』)として用いて天下統一後の秦の法令となり、更に蕭何が更に手直しをした上で3篇を加えて九章律にしたとされている。

ところが、李悝が『法経』を作ったことの初見は、李悝の時代から1000年経た648年に編纂された『晋書』刑法志の文中であり、その内容も伝わっていない(代に編纂された『漢学堂叢書』に収められている『法経』は偽書である)。そのため、その実在性については今日まで議論がある。1975年睡虎地秦簡が出土し、その内容が商鞅変法を反映している部分が存在すること、更に魏の法令を引用したと思われる文章が発見されたことから、秦の法令が魏からの移入であることが証明されたとして『法経』をはじめとする『晋書』刑法志の記述が事実に基づくものであるとする見方が強まった。ところが、引用された魏の法令は古くても安釐王時代のものであることが判明し、それよりも150年ほど昔の李悝とのつながりは証明できなかったため、『法経』非実在説派も依然として多い。近年では『法経』の出典根拠である『晋書』刑法志の記述そのものが『晋書』が編纂された唐代の創作とする見解も出されている[1]

脚注[編集]

  1. ^ 廣瀬薫雄は、九章律及びその編纂者を蕭何とする記録の初出が班固漢書』刑法志でありなおかつ班固の同時代の王充論衡』謝短篇はそれと反対に蕭何編纂説を否定していること、九章律は秦の『法経』を元にしたとする初出は三国時代魏律の序、商鞅が魏から秦に『法経』をもたらしたとする初出は南北朝時代の『魏書』刑法志、そして李悝が『法経』を作ったとする初出が唐代編纂の『晋書』であることを挙げ、時代が下るにつれて古い時代の事実が登場する矛盾を指摘して、法制史における加上が存在したとする見解を唱えており、『九章律』は前漢後期に単行の令を集成した私撰の法令集に過ぎず、『九章律』及び『法経』などそれ以前の法典の存在を否定している。

参考文献[編集]

  • 西田太一郎「法経」(『アジア歴史事典 8』(平凡社、1984年))
  • 孟慶遠 編/小島晋治 他訳『中国歴史文化事典』(新潮社、1998年) ISBN 978-4-10-730213-7
  • 廣瀬薫雄『秦漢律令研究』(汲古書院、2010年) ISBN 978-4-7629-2587-0
    • 第二章「『晋書』刑法志に見える法典編纂説話について」

外部リンク[編集]