水野忠勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
水野弥平大夫から転送)
 
水野忠勝
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄10年12月22日1568年1月31日[1]
別名 弥平大夫[1]、忠頼[2]
主君 今川義元氏真[1]
氏族 水野氏
父母 水野忠政
兄弟 近守信元松平家広室、信近忠守於大の方石川清兼室、水野豊信室、忠勝、藤助、中山勝時室、忠分忠重
樽康忠長勝?
テンプレートを表示

水野 忠勝(みずの ただかつ)は、戦国時代武将尾張国知多郡の豪族・水野氏の一族で、水野忠政の子。通称は弥平大夫。水野信元忠重於大の方は異母兄弟にあたる。

東海道一帯に勢力を持つ戦国大名今川氏に属し、今川義元氏真の2代に従った[1]永禄10年(1567年)、今川氏と敵対する武田信玄に内通して密書を送ったことが露見したため、12月22日に自害した[1][注釈 1]

『寛政譜』によれば、子の康忠(弥吉、三四郎)は徳川家康に仕えて樽氏と改姓し[注釈 2]、のちに遠江国の「町中の支配」を命じられた[3]。子孫は樽屋と号して代々江戸町年寄を務めた[3]。また通常水野成清の子とされる水野長勝を、康忠の弟とする系譜もあるという[3]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『寛政譜』の表現によれば「罪を得て十二月二十二日自裁す」[1]
  2. ^ 長篠の戦いの際、水野三四郎康忠は織田信長に酒樽を献上していたが、戦場で三四郎が松下金大夫という敵将の首を挙げたことを聞いた信長が「あの樽三四郎の働きか」と口にし、このことから家康の命で「樽」に改めたのであるという[3]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.823
  2. ^ 大石学, 佐藤宏之, 小宮山敏和, 野口朋隆 編『家康公伝 3(逸話編) (三河から関東の覇者へ)』(吉川弘文館、2011年)”. リサーチ・ナビ. 国立国会図書館. 2022年10月1日閲覧。
  3. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.824

参考文献[編集]

  • 『寛政重修諸家譜』巻三百二十八「水野」
    • 『寛政重修諸家譜 第二輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082719/439