楊明文

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楊 明文(ヤン・ミョンムン、朝鮮語: 양명문1913年11月1日 - 1985年11月21日)は、大韓民国詩人文学者教授紫門(ジャムン、자문)。

生涯[編集]

日本統治時代の平安南道平壌生まれ。1939年に詩集『華愁園』を発表した。1942年に専修大学法学部を卒業し、1944年までに東京で文学創作をした。 光復後は北朝鮮地域に行ったが、朝鮮戦争第3次ソウルの戦いの時に越南した。その後は全国文化団体総連合会救国隊員、従軍作家団員として韓国陸軍に従軍した。終戦後はソウル大学校文理科大学・師範大学、国防部戦時連合大学、首都医科大学(現在のソウル友石大学校)、清州大学で詩論と文芸思潮の講義をし、1960年に梨花女子大学校副教授を務め、1966年以降は国際大学(現在の西京大学校)の国語国文学科教授を務めた[1]

詩集は『華愁園』『頌歌』『火星人』『青い伝説』『耳目口鼻』『黙示黙』などがある[1]。歌曲で作詩された『明太』などが知られているほか、光成高等学校の校歌を作詞した。持病により72歳で死去した[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b 양명문(楊明文)”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年9月8日閲覧。
  2. ^ 詩人(시인) 楊明文(양명문)씨 別世(별세)”. 네이버 뉴스 라이브러리. 동아일보 (1985年11月22日). 2022年9月8日閲覧。

外部リンク[編集]