林古渓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

林 古渓(はやし こけい、1875年7月15日 - 1947年2月20日)は歌人作詞家、漢文学者、立正大学教授、東洋大学講師。本名は竹次郎。東京・神田出身。哲学館(現・東洋大学)教育学部卒。「浜辺の歌」(成田為三作曲)の作詞をした事でも知られる。

往来[編集]

  • 林 古渓は林羅山に連なる家系で、代々学者の家柄である林家の次男として東京神田に生まれた。
  • 幼少時代を神奈川県愛甲郡古沢村(現、厚木市)で過ごし、古渓の筆名はこの古沢村から採ったという。
  • 10歳の時父を失って以来池上本門寺に入り修行し、さらに哲学館(のちの東洋大学)に入学して国漢を学んだ。
  • 漢詩には非凡な才を見せたが、一方で新体詩のグループを作って積極的に活動を始めた。
  • 卒業後は同校付属の京北中学校で国漢科教員となり、生徒たちから「達磨さん」と呼ばれて慕われたという。
  • 30歳を過ぎてから、東京音楽学校分教場や第一外国語学校(イタリア語)でも学んでいる。
  • 古渓が東京音楽学校で学んでいたとき、牛山充と知り合う。
    牛山は後に東京朝日新聞の嘱託として、音楽、バレエ批評を執筆し、マスコミを舞台にした評論活動のパイオニア。戦前戦後を通じて音楽舞踊評論家として活躍する人物である。雑誌『音楽』は1910(明治43)年に創刊したが、牛山は在学時代からその編集に携わった。古渓はその文才を買われて、彼のためにぼほ毎月作曲用の詩歌を寄稿した。『はまべ』を雑誌『音楽』に掲載した理由である。
  • 牛山 充は後輩の成田為三に作曲の試作として、林 古渓の『はまべ』の詞を勧めた。
    浜辺の歌は、辻堂東海岸を思い出し作詞したというのが一般的な説である[1]が、異論も多い。
  • なお、国立国語研究所所長、国語学会代表理事などをつとめた国語学者林大は長男である。

作詞を担当した主な曲[編集]

  • 大いなるかな(平井康三郎作曲)
  • 五月(平井康三郎作曲)
  • ひばり(平井康三郎作曲)
  • 牡丹(平井康三郎作曲)
  • みの虫(平井康三郎作曲)
  • 阿蘇(信時潔作曲)
  • 浜辺の歌(成田為三作曲)
  • ひる(弘田龍太郎作曲)
  • わがちから(山田耕筰作曲)
  • 東洋大学校歌(山田耕筰作曲)
  • 済美高等女学校校歌(宮城道雄作曲)
  • 村野工業高校校歌(梁田貞作曲)

歌集[編集]

  • わたくしの母
  • わが歌千首

脚注[編集]

  1. ^ 「父竹次郎が、羽鳥小学校で教鞭(ママ)を明治21年~25年務めた。その間羽鳥に住み、辻堂海岸へ、防風や松露を摘みに来た……(辻堂タイムスVol.61)」が代表的であるが、(1)竹次郎は古渓の本名である。(2)父はこの年には没後である。(3)羽鳥小学校は戦後開校した学校で、明治時代にはない。明治25年までは「羽鳥学校(現在の藤沢市立明治小学校の前身の一つ)」があったので、その誤りであろう。