松平近貞 (豊後国府内藩主)
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄2年1月22日(1689年2月11日) |
死没 | 宝暦7年5月13日(1757年6月29日) |
戒名 | 雲晴院 |
墓所 |
東京都小石川の伝通院 大分県大分市の浄安寺 |
官位 | 従五位下・主膳正、対馬守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 豊後府内藩主 |
氏族 | 三宅氏→大給松平家 |
父母 |
父:三宅康雄、母:松平近陳の娘 養父:松平近禎 |
兄弟 | 襖右衛門、三宅康徳、近貞、於万 |
妻 |
松平近禎の娘 側室:百樹院 |
子 | 近形、三宅康之、土岐頼煕正室、松平近朝室、松平定秀正室、堀田一敦室、宣遊院、於只 |
松平 近貞(まつだいら ちかさだ)は、江戸時代中期の大名。豊後国府内藩の第4代藩主。官位は従五位下・主膳正、対馬守。親清流大給松平家8代当主。
略歴
[編集]正徳2年(1712年)正月、先代藩主で母方のおじにあたる松平近禎の婿養子となり、享保10年(1725年)の近禎の死去により跡を継いだ。享保の大飢饉や享保17年(1732年)の虫害による大被害で藩財政は一気に悪化し、幕府から3000両の金を借用して何とかする有様であった。寛保3年(1743年)4月にも城下で大火が起こり、幕府から2000両借用するなどして藩財政は破綻した。
このため、租税政策を重点において定免制度の制定や厳しい倹約令の制定、さらに商人から御用金をせしめて藩財政を再建しようとしたが、やがて失意のうちに延享2年(1745年)9月18日、家督を長男・近形に譲って隠居した。
宝暦7年(1757年)5月13日、69歳で死去した。法号は雲晴院。墓所は東京都小石川の伝通院と大分県の浄安寺。
系譜
[編集]父母
正室
- 松平近禎の娘
側室
- 百樹院
子女
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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