李賢 (唐)

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李賢
続柄 高宗第六皇子
武則天第二皇子

全名 李賢
称号 章懐太子(諡号)
身位 王→皇太子→庶人
出生 永徽5年12月17日[1]
655年1月29日
死去 文明元年2月27日[2]
684年3月18日
巴州
配偶者 房氏(房先忠の娘)
子女 李光順
李守礼
李守義
父親 高宗
母親 武則天
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李 賢(り けん)は、中国皇太子高宗の六男で、母は武則天は明允。諡号章懐太子(しょうかいたいし)。中宗睿宗の同母兄である。

概要[編集]

5歳で潞王に封じられ、6歳で雍州牧・岐州刺史を兼ねる。11歳で沛王・揚州都督・左武衛大将軍に任じられる。上元2年(675年)、同母兄・李弘の死によって皇太子となる。幼い頃より学問に通じ、儀鳳元年(676年)には学者たちとともに『後漢書』の注釈を完成させた。

ところが、正諫大夫の明崇儼武后に対して弟の栄王顕(のちの中宗)を推挙したことから、武后は賢に対して皇太子を弟に譲るように迫った。それから間もない調露元年(679年)、明崇儼が強盗に襲われて死亡するという事件が起こった。武后は彼を恨む賢の仕業であると疑い、賢の屋敷を捜索したところ、屋敷内から甲数百が発見された。武后はこれを謀反の準備であるとして、高宗に迫って皇太子を廃して庶人とした。永淳2年(683年)、賢は巴州に流された。

文明元年(684年)に実権を掌握した武后は、左金吾将軍丘神勣を巴州に派遣して賢を幽閉し、迫って自殺させた。ところが、丘神勣が帰還すると、武后はこれを罪に陥れて畳州刺史とし、改めて賢を雍王に封じた。

次いで睿宗が復位すると、皇太子の地位に復して「章懐」の諡号を贈り、唯一生き残っていた息子である次男李守礼中国語版を邠王に封じた(長男李光順は先に誅殺され、三男李守義も病死していた)。

子孫[編集]

李守礼には多くの子(したがって李賢の孫)があったが、唐の歴史上重要な人物に以下があった[3]

脚注[編集]

  1. ^ 旧唐書』巻4, 高宗紀上 永徽五年十二月戊午条による。
  2. ^ 大唐盛世 唐代帝陵
  3. ^ 『旧唐書』列伝第三十六 高宗中宗諸子

参考文献[編集]

  • 清水文明「章懐太子」(『東洋歴史大辞典』(平凡社、1937年/縮刷版:臨川書店、1986年)ISBN 978-4-653-01472-0
  • 守屋美都雄「章懐太子」(『アジア歴史事典 4』(平凡社、1984年))