智暹

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智暹
1702年 - 1768年6月28日
元禄15年 - 明和5年5月14日
慈等
遊心斎
生地 播磨国印南郡魚崎
宗旨 浄土真宗
宗派 浄土真宗本願寺派
寺院 真浄寺(播磨国魚崎)
若霖
著作 『浄土真宗本尊義』など多数
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智暹(ちせん、1702年元禄15年) - 1768年6月28日明和5年5月14日[1])は、江戸時代中期の浄土真宗本願寺派。明和の法論を引き起こした。播南轍(学派)の祖。

概要[編集]

播磨国出身。若霖に師事し、播磨真浄寺の住職となる。智暹は、西本願寺学林4世能化法霖の跡を継ぐことを有力視されていたが適わず、同職には義教が就任した。

明和の法論[編集]

1764年明和元年)に『浄土真宗本尊義』を著し、学林で正統とされていた『方便法身義』(法霖の著)の本尊論を批判したことで、1767年(明和4年)に功存智洞ら本山の学林との間に明和の法論[2]を起こしたが、西本願寺第17世門主法如の裁定により敗北し、『浄土真宗本尊義』は本山から発禁を命じられた。1768年6月28日(明和5年5月14日)、67歳で死去した[1]

没後[編集]

発禁された『浄土真宗本尊義』は没後『略述法身義』と改題して再刊を許された[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  2. ^ 明和の法論は、承応の鬩牆三業惑乱と並んで浄土真宗本願寺派の三大法論とされる。

外部リンク[編集]