御所ノ浦礒右衞門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

御所ノ浦 礒右衞門(ごしょのうら いそえもん、享保3年(1718年) - 没年不明)は、筑後国山門郡(現在の福岡県みやま市)出身で呉服部屋に所属していた江戸時代の元大相撲力士。本名は倉吉とのみ伝わる。

元は九州相撲の呉服織右衛門の弟子で、大灘・荒灘を名乗っていた。江戸相撲では宝暦10年(1760年)冬場所(10月)、御所ノ浦礒右衞門の名で看板大関として登場。しかし大関を務めたのはこの場所限りで、次の宝暦11年(1761年)冬場所(10月)小結に下がり、下の名前を平太夫(へいだゆう)と改める。以降平幕二段目を往復していた。

一般的な歴代大関の中では第9代大関とされるが、初代雪見山堅太夫、第2代白川関右エ門に続いて、一定水準以上の実力があったと考えられる力士としては3人目と考えられ(第3代~第8代の大関は1場所だけ番付に載った看板大関)、富岡八幡宮大関力士碑にも1人目の雪見山堅太夫と2人目の白川関右エ門に続いて御所ノ浦礒右衞門が3人目として刻名されている。身長173cmの小兵力士ながら、「相撲にかけて仙なり」と評された名人で、全盛期の実力については、向こうづけの押しは「牛の押しきたるごとし」と絶賛され、関東方御所殿の牛首という異名があった。 相手の胸に頭をつける取り口を考案したと伝えられる。しかし、現役晩年は負けが込むようになっていき、数え52歳の明和6年(1769年)冬場所(10月)に7戦全敗となったのを最後に引退した。

主な成績(江戸)[編集]

  • 幕内在位:7場所
  • 幕内(上段)成績:18勝23敗4休2分1預1無勝負
  • 大関在位:1場所
  • 大関成績:不明(勝敗記録現存せず)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]