広沢尚正

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広沢尚正
時代 室町時代
生誕 不詳
死没 不詳
改名 彦次郎→広沢尚正
幕府 室町幕府
主君 足利義尚
氏族 足利氏御一族
父母 父:金剛座四郎次郎
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広沢 尚正(ひろさわ ひさまさ)は、室町時代猿楽者武士。元の名前は彦次郎で、父は金剛座の四郎次郎という者であった。

概要[編集]

大乗院寺社雑事記文明16年(1484年)3月朔日条によると、祖父は観世座の正松大夫、父は金剛座の四郎次郎とされる。

後法興院記』文明16年2月17日条によると、「観世大夫座者彦次郎」は足利義尚から「日比大樹被寵愛」[1]されていたため、名字を広沢と号させ、将軍家の御一族として元服させ取り立てたという。広沢とは、足利義康の孫・広沢義実源義清の子、上野国山田郡広沢の領主)に由来するとされる。このことについて、世間は「此事不可然之由世及沙汰云々。近日就此儀有物云云々。前代未聞之事也。」と反応している[2]細川政元ら累代の幕臣たちは不満を漏らし、将軍家への伺候を辞めて領国に帰ると言い出した。また一方で公家たちは、能楽師の子ながら将軍家の御一族として元服した広沢に、御祝いを述べねばならぬことに戸惑った。

義尚はこの尚正に立派な正室を迎えるべく奔走し、正親町三条公躬(公治)の娘に狙いを定め、使いを送った。2日間に17回の使者がやってきたとされるが、公躬の娘は剃髪し逐電した。このため義尚は、赤松貞村の娘に狙いを変えている。これらの義尚の行動には、大御所(先代将軍)の足利義政も不快感を示している。

義尚の近江国出陣(六角討伐)にも参加しており[3]、事前の出陣パレードには細川政元や畠山政長富樫政親らの幕閣の有力者や諸大名、大館尚氏らの側近衆など諸将に並んで名がみえる。

義尚が近江の陣中にて没すると、広沢は剃髪し、義尚の遺骸に付き従って帰洛した。その後の動向は伝わらない。

義尚の死から3年後、三条西実隆三十六歌仙の色紙を入手しているが、これは元々は広沢が義尚から与えられたものであったとされる。

脚注[編集]

  1. ^ 同性愛としての寵愛とされる。
  2. ^ 『〈武家の王〉足利氏』[要ページ番号]
  3. ^ この出陣中、義尚は同じく贔屓人事として、お気に入りの側近であった結城尚豊を六角氏に代わる近江国守護に任命している。

参考文献[編集]

  • 谷口雄太『〈武家の王〉足利氏』(吉川弘文館、2021年)