小倉公雄

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小倉公雄
時代 鎌倉時代中期 - 後期
生誕 不詳
死没 不詳
改名 公雄→顕覚(法名)
別名 号:小倉
官位 正二位権中納言
主君 後嵯峨上皇後深草天皇亀山天皇
氏族 小倉家
父母 父:洞院実雄、母:一条頼氏の娘
兄弟 洞院公宗公雄、守恵、洞院佶子洞院愔子洞院公守洞院季子、禖子、慈順、洞院公尹、公方、公風、定勝、実修、公潤、公春、近衛基平室、鷹司基忠室、西園寺公蔭室、三条公親室、実子
姉小路実世の娘、九条良平の娘
実教、證季、実覚、季子、惟雲親王母、権中納言冬良室
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小倉 公雄(おぐら きんお)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿小倉と号する。左大臣洞院実雄の二男。官位正二位権中納言小倉家の始祖とみなされている。

経歴[編集]

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

突然の出家[編集]

増鏡[4]によれば、後嵯峨院に目をかけられていた公雄は、後嵯峨院の崩御を悲しんで文永9年(1272年)に出家してしまった。父・実雄にとっては長男公宗が弘長3年(1263年)に早世したことに続いて二男の公雄が出家してしまったために、大変悲しんだと記されている。

生没年について[編集]

公雄は生没年が不詳であるが兄弟姉妹の生年を見ると、兄公宗は仁治2年(1241年)生まれ、佶子は寛元3年(1245年)生まれ、愔子は寛元4年(1246年)生まれ、弟の公守は建長元年(1249年)生まれである。公宗、佶子と同母兄弟である公守が5歳で叙爵されていることから、公雄も4〜6歳で叙爵されたと仮定すると公雄の生年は1242〜44年頃なのではないだろうか。出家したのが文永9年(1272年)であるから、昇進速度はかなり早い方である。 没年については正中百首に詠進しているらしく、正中2年(1325年)までの存在が確認できるという[5]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 大宮院御給。
  2. ^ 朝観行幸太政大臣大宮院御給。
  3. ^ 後嵯峨院崩御による。
  4. ^ 増鏡』、井上宗雄訳注、巻8「あすか川」
  5. ^ ウェブサイト、『千人万首』、小倉公雄の項。

参考文献[編集]