宮尾城

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宮尾城
広島県
宮尾城の本丸
宮尾城の本丸
別名 宮ノ尾城、宮尾ノ城、宮ノ城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 毛利元就
築城年 天文24年(1555年)5月
主な城主 毛利氏己斐直之
廃城年 不詳
遺構 曲輪、石垣、堀切
指定文化財 「厳島」として国の特別史跡・特別名勝
再建造物 なし
二の丸

宮尾城(みやおじょう)は、広島県廿日市市宮島町(かつての安芸国佐西郡厳島)にあった城。

厳島神主家の一族である棚守房顕の著作、棚守房顕覚書等では、1555年(弘治元年)5月に、安芸国の国人領主であった毛利元就が、大内氏を傀儡としていた陶晴賢をおびき寄せるために厳島に築いたとされる。

別名宮ノ尾城(みやのおじょう)とも呼ばれる。城を含む島全体が、国の特別史跡及び特別名勝に指定され、瀬戸内海国立公園の一部でもある(詳細は厳島を参照)。

沿革[編集]

1555年(弘治元年)9月21日厳島に上陸した陶晴賢率いる大内軍2・3万は厳島の塔の岡に本陣を置き、毛利氏に降った己斐豊後守直之が守る宮尾城を包囲し攻撃を開始したが、城の攻め口が狭くなかなか落とせなかった。その間に、草津に布陣していた元就は伊予村上水軍が加勢に現れると、9月30日の夜半の嵐の中、二手に別れて密かに上陸を果たし、翌10月1日早朝、一斉に奇襲を仕掛け、宮尾城の守備兵も出撃し、上陸した毛利軍本隊とともに大内軍を壊滅させた(厳島の戦い)。

厳島の戦いの後、宮尾城の処遇は不明である。

概要[編集]

厳島北西にある要害山と呼ばれる標高30mの丘を中心に築かれた連郭式平山城である。現在と違い、当時は城北部の山麓まで海が迫っており、三方が海に面し、水軍の運用も可能な城であった。そのため、援軍として熊谷信直を送り込むことができた。

城自体は決戦を前に急造された陣城のような城とされるが、脆く崩れやすい地盤を固めるために石垣も使用されている。また、築城にも人夫1000人を使って、1か月程度はかかっており、戦時急造の雑な城ではなかったと推測される。

関連項目[編集]