宇都宮師管

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宇都宮師管(うつのみやしかん)は、1940年から1945年まで設けられた大日本帝国陸軍の管区で、師管の一つである。前身は第14師管東部軍管区に属し、関東地方北部の栃木県群馬県茨城県と、1941年8月までは長野県も含んだ。防衛・動員などの管区業務を担当する部隊は、第51師団留守第51師団第81師団、留守第51師団と変遷した。1945年4月に宇都宮師管区に改称してなくなった。

番号の師管から地名の師管へ[編集]

師団制を採用してから、師団師管は同じ番号で対応するのが原則で、関東地方北部では第14師団第14師管を管轄していた。第14師団が戦争などで平時の衛戍地である宇都宮から離れると、あとには留守第14師団が置かれて、師管の防衛と、師管での徴兵・訓練などの管区業務を引き継いだ。しかし、1940年に第14師団が満州に衛戍地を移し、新設の第51師団が師管を引き継ぐことが決まった。このとき、第51師管を作ることなく、他師管もふくめて一律に地名で呼ぶことになり、1940年7月24日制定(26日公布、8月1日施行)の昭和15年軍令陸第20号による陸軍管区表で、宇都宮師管が置かれることになった[1]

範囲は栃木県群馬県茨城県長野県の4県である。東京に司令部を置く東部軍管区に属し、師管を県に対応する4つの連隊区に分けた[1]。栃木県には宇都宮連隊区、群馬県には前橋連隊区、茨城県には水戸連隊区で、長野県には松本連隊区である[1]。これら範囲は以前の第14師管と同じである[2]。県境と連隊区の境界が一致するのはこの時点では例外的で、他には弘前師管善通寺師管があるだけだった[1]

範囲縮小と管轄師団の変遷[編集]

1941年7月に、第51師団は満州に派遣されることになり[3]、あとには留守第51師団が置かれて宇都宮管区を引き継いだ。

1941年8月5日制定(7日公布・11月1日施行)の昭和16年軍令陸第20号の陸軍管区表改定で、長野県は金沢師管に移った[4]

1944年4月4日、昭和19年軍令陸甲第37号により、留守第51師団をもとに第81師団を新設し、これが宇都宮師管の防衛と管区業務に携わった[5]

ところが3か月後の7月6日には、昭和19年軍令陸甲第77号が出され、第81師団は動員されて管区から離れ、留守第51師団がふたたび臨時動員されて宇都宮師管の防衛等にあたった[6]

師管区への改称[編集]

1945年1月22日制定(24日公布、2月11日施行)の昭和20年軍令陸第1号などで、留守師団に管区防衛・動員を委ねる方式を廃止し、師管区を常設の師管区部隊に任せる制度が導入された[7]。4月1日に宇都宮師管は宇都宮師管区となり、留守第51師団が宇都宮師管区部隊に転換した。関東北部3県の範囲は変わらなかった。

連隊区の変遷[編集]

1941年11月1日から1945年3月31日まで[4]

  • 宇都宮連隊区 - 栃木県
  • 水戸連隊区 - 茨城県
  • 前橋連隊区 - 群馬県

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『官報』「4066号(昭和15年7月26日)
  2. ^ 『官報』第3785号(大正14年4月8日)
  3. ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』、313 - 314頁。
  4. ^ a b 『官報』第4375号(昭和16年8月7日)
  5. ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』、423頁。
  6. ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』、431頁
  7. ^ 『官報』第5420号(昭和20年2月10日)

参考文献[編集]

  • 内閣印刷局『官報』。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『本土決戦準備』<1>(戦史叢書)、朝雲新聞社、1971年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史部『陸軍軍戦備』(戦史叢書)、朝雲新聞社、1979年。