坪井九右衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
坪井 九右衛門(つぼい くえもん、寛政12年(1800年)- 文久3年10月28日(1863年12月8日))は、日本の武士・長州藩士。名は正裕。子寛。号は顔山。佐藤家(総理大臣・佐藤栄作の実家)に生まれ、幼少時に坪井家に養子に行った。
村田清風の藩政改革に協力して功を挙げた。清風と共に藩政改革の建白書を毛利敬親に提出している。しかし清風の2回目の藩政改革は、清風の政敵である椋梨藤太の台頭で失敗し、しかも清風は安政2年(1855年)に中風が原因で他界。このため、坪井は椋梨により失脚を余儀なくされる。
後に椋梨の失脚により、再び藩政に参与したが、坪井は尊王攘夷よりも佐幕派を支持したため、過激な尊王攘夷派が多い長州藩内部で孤立してしまい、文久3年(1863年)にその過激な一部の尊王攘夷派によって萩城下の野山獄で処刑された。享年64。

