土岐頼香 (戦国時代)

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土岐 頼香
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文13年(1544年9月
別名 八郎(通称
墓所 岐阜県羽島郡笠松町無動寺221の
土岐塚[1]
幕府 室町幕府
主君 斎藤利政(道三)
氏族 美濃源氏土岐氏
父母 父:土岐政房、母:斎藤利政の娘
兄弟 頼武頼芸原治頼梅戸光高
揖斐光親鷲巣光敦頼満頼香
光建、おおがみ殿(各務盛正室、
各務元正一学母)
斎藤利政(道三)の娘
不詳
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土岐 頼香(とき よりたか[2])は、戦国時代の武将。通称は八郎[2]土岐政房の八男[2]

天文13年(1544年)9月、美濃と隣接する尾張を統治していた戦国大名織田信秀の美濃侵攻によって起きた戦(無動寺城の戦い、松山の戦い)の際、舅である斎藤道三に与して戦っていたが、無動寺城にて、土岐氏を潰そうと前から目論んでいた道三から亘利城主松原源吾を刺客に差し向けられ、寝所に乱入されたため、自刃した。

脚注[編集]

  1. ^ 笠松町公式サイト 土岐塚
  2. ^ a b c 寛政重修諸家譜』巻第二百八十三