劉献廷

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劉 献廷(りゅう けんてい、1648年 - 1695年)は、中国代の儒学者は君賢または継荘。広陽子・聡荘と号す。順天府大興県の出身。

生涯[編集]

19歳の時に蘇州に行き、のちに呉江に30年住む。晩年は湖北を経て帰郷し、最後は蘇州で没する。万斯同に見いだされて『明史』の編纂事業に参加し顧祖禹らの『大清一統志』の編纂にも参加した。

学問[編集]

王夫之が生きていた当時、彼を学者として知っていたのは劉献廷のみといわれる。顔元の学統を継ぐ王源の友人は李塨と劉献廷だけであった。王源は劉献廷の学問の範囲について「天地陰陽の変、覇王の大略、兵法、文章、典章制度、地方の要害、礼、楽、象緯、医薬、書、数、法律、農業、武器の製造など果てしないほどに広汎な研究を行った」と証言している。

全祖望は「声音の学問においては造化の蘊奥をきわめ、百世の後もなお通用する新研究を行った」との劉献廷自らの評価を是認している。梁啓超は「釈守温が初めて中国のために新字母を創立しようとしてから民国7年教育部の注音字母頒行まで一千年近くたっているが、その間もっとも深く論理的に思索したのは劉献廷である」と考えた。

著書[編集]

  • 『広陽雑記』
  • 『新韻譜』

参考文献[編集]

  • 王源『居業堂文集』巻18「劉処士墓表」
  • 全祖望『鮚埼亭集』巻28「劉継荘伝」
  • 梁啓超『清代学術概論』