乾直建

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乾直建の墓

乾 直建(いぬい なおたけ、? - 1760年10月29日宝暦10年9月21日))は、江戸時代中期の土佐藩上士土佐国幡多郡代。禄高は300石。板垣支流乾氏の第6代当主。家紋は「榧ノ内十文字」。板垣退助の高祖父。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

土佐藩上士馬廻格・300石)乾正清(與惣左衛門)の嫡男として高知城下(現・高知県高知市)に生まれる。4人兄弟の長男。幼名は虎丞で、通称は金右衛門、庄助と変わり、最後は加助と名乗った。母は出雲路直元の妹。なお、諱「直建」の「直」は、伯父の出雲路直元の諱から一字をとってつけられたもので、通常乾家は「正」か「信」の文字を通字としており「直」の字は異例[1]

1718年享保3年)、土佐藩主・山内豊隆に惣領御目見を命じられる。

1731年9月28日享保16年8月28日)、大御小性を命じられる。

1734年1月15日(同18年12月11日)、御省略をもって、右役を差免られる。

1734年9月27日(同19年9月)より1735年2月23日(同20年2月)まで、高知城下火消役を務める。

1736年10月18日(元文元年9月14日)、父・正清が病死。

跡目相続以降[編集]

1737年1月25日(元文元年12月25日)、土佐藩主・山内豊敷より、亡父跡目(300石)を下し置かれる。

1751年7月20日宝暦元年6月28日)、柄弦御指物の格式をもって、土佐国幡多郡代・中村定詰を命じられる。

1752年3月24日(同2年2月9日)、御留守居物頭を命じられ、幡多郡代を差免られる。

晩年[編集]

1760年3月17日(同10年2月1日)、病気につき願い出て、御留守居物頭を免じられる。御馬廻を命じられる。

1760年10月29日(同年9月21日)病死。

墓は土佐国土佐郡薊野村板垣山(現 高知県高知市薊野東町15-12の北東付近)の山頂にある代々墓地に建てられた。

家族[編集]

補註[編集]

  1. ^ 『板垣・乾氏系譜』より
  2. ^ この人物を通じて乾和三の血脈が入る。乾和三の曾孫・乾作兵衛信宣(山内彦作信和の弟)の娘が安積祥任の妻で、その娘が乾直建の妻となる。
  3. ^ 野本直誠の養子となる。

参考文献[編集]