上官皇后

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上官皇后(じょうかんこうごう、紀元前88年 - 紀元前37年)は、前漢の人。漢の昭帝皇后。父は車騎将軍上官安、父方の祖父は左将軍上官桀。母方の祖父は大将軍霍光

略歴[編集]

昭帝は幼くして即位し、姉に当たる蓋長公主が養育していた。蓋長公主は周陽氏の娘を昭帝の配偶者にしようとしたが、当時権力を握る上官桀の子の上官安は自分と霍光の娘との間に生まれた子を嫁がせようと考えた。同じく権力を握る霍光に相談したところまだ幼いとの理由で許されなかったが、上官安は蓋長公主が寵愛する丁外人を通じて蓋長公主を説得した。そこで上官安の娘を後宮に入れるよう詔が出され、上官安の娘は倢伃となり、上官安は騎都尉に任命された。一月後、上官安の娘はわずか6歳にして皇后に立てられ、上官安は車騎将軍となった(始元4年(紀元前83年))。翌年には皇后の父であることを理由に列侯(桑楽侯)に封じられた。

その後、上官安は皇帝を「我が婿」と称したり、継母や父の側室と淫乱な行いをするなど、驕慢で淫乱となっていった。また、丁外人のための官位を霍光に求めたが断られたことなどから霍光との関係が悪化した。そこで上官桀、安親子は蓋長公主、皇帝になれなかったことから不満のあった昭帝の兄燕王劉旦などと結んで霍光を討ち、更に燕王劉旦をも殺して昭帝を廃して上官桀を皇帝に立てようと企んだ。しかし陰謀は発覚し、上官安と上官桀は殺された(元鳳元年(紀元前80年))。

上官皇后は幼少で陰謀に関与はしておらず、また霍光にとっても孫であることから廃立されなかった。皇后は奴婢を置いて上官桀、上官安の墓を守らせた。

霍光は上官皇后が昭帝の寵愛を一身に受けて後嗣を儲けるよう願った。そこで昭帝の左右に仕える者や医師は霍光におもねって、昭帝に後宮への立ち入りを控えるよう進言したり、宮女たちには胡服(ズボン)のような衣装を着せて間違っても帝の手がつかないようにした。

昭帝が元平元年(紀元前74年)に突然崩じた時、上官皇后はまだ15歳だった。昭帝に男子は無く、昌邑王劉賀が迎えられて皇帝に即き、上官皇后は皇太后となった。しかし劉賀の愚鈍と乱行は眼を覆うばかりだったので、霍光以下の大臣は上官皇太后に劉賀を廃すべきことを上奏、皇太后の名の下に劉賀は廃位され、代わりに劉病已(宣帝)が立てられた。

宣帝が即位すると上官皇太后は太皇太后となった。上官皇太后は霍光の子霍禹ら母の一族霍氏が反乱を企み誅殺された後も地位を失わず、元帝建昭2年(紀元前37年)、52歳で死亡し、昭帝陵である平陵に合葬された。

参考文献[編集]

  • 班固著『漢書』巻7昭帝紀、巻18外戚恩沢侯表、巻68霍光伝、巻97上孝昭上官皇后伝