三浦義和

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三浦 義和(みうら よしかず、宝暦2年(1752年) - 文政7年(1824年7月)は、江戸時代旗本三浦義如の2男、母は不詳[1]。通称は峯之丞、左膳、五郎左衛門、官位は従五位下相模守和泉守[1]。妻は長田阿波守の養女、養子に三浦義質(実弟)、女子(一色政方の娘)、女子(大原正純の娘)がいる[1]

家系[編集]

祖父 - 三浦 義周[編集]

三浦 義周(みうら よしちか)は、江戸時代旗本。子に安祥院徳川家重側室徳川重好の母)、三浦義如[1]。法名は浄慶、通称は五郎左衛門[1]延享2年(1745年)に徳川吉宗に出仕して500石の旗本寄合席に列する[1]寛延3年(1750年)1月8日に68歳で死去[1]

父 - 三浦 義如[編集]

三浦 義如(みうら よしゆき)は、江戸時代旗本。通称は峯之丞、左膳、五郎左衛門、靱負[1]。法名は浄徹[1]。妻は村越正幸の娘[1]。子は三浦友松(夭折)、三浦義和三浦義質三浦義富、他女子5人[1]寛延3年(1750年)に家督を相続し、様々な役職を歴任した[1]安永7年(1778年)5月2日に死去、享年60[1]

生涯[編集]

明和5年(1768年)12月5日、初めて徳川家治御目見し、安永2年(1773年)5月7日には小納戸となり、12月16日に布衣の着用を許された[1]。安永7年(1778年)閏7月7日に家督を相続する(この時27歳)[1]。安永8年(1779年)、徳川家基の死に際して4月18日に旗本寄合席に列した[1]天明元年(1781年)4月21日に小納戸に復帰、天明3年(1783年)2月7日に西丸小姓に、次いで天明6年(1786年)閏10月7日には江戸城勤務となり、12月18日に従五位下相模守に叙された[1]。天明7年(1787年)8月8日には放鷹(ほうよう)に参加して鳥を射止め、時服を賜っている[1]寛政5年(1793年)11月7日、小十人頭となった[1]享和元年(1801年)4月18日に先手鉄砲頭、文化12年(1815年)12月12日に西丸持弓頭、文政3年(1820年)7月8日に槍奉行となり、文政7年(1824年)7月に死去した[2]

弟の三浦義質が養子となった[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「寛政重脩諸家譜. 第8輯」による。本文は33頁、コマ番号は28頁。
  2. ^ 『寛政譜以降旗本家百科事典』第5巻

参考文献[編集]

  • 寛政重修諸家譜』巻第千三百四十六「三浦」(国会図書館デジタルコレクション:国民図書版第8輯
  • 『寛政譜以降旗本家百科事典』第5巻(東洋書林、1998年)p.2669