ヨン・メホト

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ヨン・メホト
フェイエノールトでのメホト (2007年)
名前
本名 Johannes Antonius Bernardus Metgod
ヨハネス・アントニウス・ベルナルドゥス・メホト
ラテン文字 John Metgod
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
生年月日 (1958-02-27) 1958年2月27日(66歳)
出身地 アムステルダム
身長 190cm
選手情報
在籍チーム アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 (アシスタント)
ポジション DF (CB)
利き足 右足
ユース
オランダの旗 DWS
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1975-1976 オランダの旗 ハールレム 32 (1)
1976-1982 オランダの旗 AZアルクマール 195 (26)
1982-1984 スペインの旗 レアル・マドリード 50 (1)
1984-1987 イングランドの旗 ノッティンガム・フォレスト 116 (15)
1987-1988 イングランドの旗 トッテナム・ホットスパー 12 (0)
1988-1994 オランダの旗 フェイエノールト 164 (13)
通算 568 (56)
代表歴
1978-1983 オランダの旗 オランダ 21 (4)
監督歴
1996-1997 オランダの旗 フェイエノールト
2004-2005 オランダの旗 エクセルシオール
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヨン・メホトジョン・メトホト、John Metgod)ことヨハネス・アントニウス・ベルナルドゥス・メホトJohannes Antonius Bernardus Metgod1958年2月27日 - )は、オランダアムステルダム出身の元同国代表サッカー選手でありサッカー指導者。ポジションはDF。現在はアラブ首長国連邦代表のアシスタントコーチを務める。

経歴[編集]

クラブ[編集]

1974年、HFCハールレムでプロデビューを果たし、1シーズン後にAZアルクマールへと移籍した。AZでは6シーズンを過ごし、1980-81シーズン、クラブはUEFAカップ決勝に進出。イプスウィッチ・タウンFCと対戦した。2戦合計4-2で試合には敗れたものの、メホトはCBながら1得点を記録した。

1982年、レアル・マドリードに移籍した。1年目はドイツ人DFのウリ・シュティーリケとコンビを組み安定した守備を見せたが、2シーズン目は当時の「ピッチに同時に立てる外国人選手は2人まで」という規則により、ホルヘ・バルダーノにその座を奪われ出場機会が減少した。

レアル・マドリードでの出場機会減少を受け、イングランドのノッティンガム・フォレストFCへと移籍した。ノッティンガムでは守備の要として活躍し、在籍4シーズンでリーグ戦に116試合出場、15得点を記録した。1987年にトッテナム・ホットスパーFCに活躍の場を移したが、成功を収めることはできなかった。

1988年、フェイエノールトにベテラン選手として入団した。当時のフェイエノールトとアヤックスの間には激しいライベル関係が存在し、メホト自身もアムステルダム出身であったゆえ、最初はフェイエノールトサポーターに受け入れられなかった。しかし、メホトがアヤックスユースではなくDWSユース上がりだということとメホト自身の活躍からすぐにサポーターの支持を得た。1992-93シーズンにはエールディヴィジを制覇、翌1994-94シーズンの終了をへてその長い現役生活に終止符を打った。

代表[編集]

1978年11月15日、ドイツ民主共和国代表戦にて、ヨハン・ニースケンスとの交代でA代表デビューを飾った。また、オランダ代表としてUEFA欧州選手権1980に参加した。

指導者経歴[編集]

現役引退後すぐにサッカー指導者としてのキャリアを開始し、1996-97シーズン、自身初となるトップチームの指揮を務めるクラブとしてSBVエクセルシオールが挙がった。しかし、1シーズンで解任され、2004-05シーズンに再度復帰するもまたもや1シーズンで役目を終えた。それ以降は主にイングランドのクラブでアシスタントコーチとしてサッカーに携わっていたが、2019年からはアラブ首長国連邦代表のアシスタントコーチを務める。

タイトル[編集]

クラブ[編集]

AZ
フェイエノールト

個人[編集]

外部リンク[編集]