ムワタリ

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ムワタリMuwatalli、在位:紀元前1290年頃 - 紀元前1272年頃)は、ヒッタイト大王。中王国時代に同名の王ムワタリ1世がいたため、区別してムワタリ2世とも表記される。エジプト第19王朝ラムセス2世との間で史上名高いカデシュの戦いを戦った。

来歴[編集]

カデシュの戦い[編集]

前王ムルシリ2世の長男として生まれ、父の跡を継いでヒッタイト王となった。祖父であり3代前の王シュッピルリウマ1世の時代から続くシリアへの拡大政策を継承したが、エジプトではシリア政策に消極的だった第18王朝が倒れ、第19王朝が成立していた。エジプト王セティ1世はヒッタイトの宗主権下にあったアムル王国カデシュ王国に軍を進め、両王国をエジプトの影響下に置いた。ムワタリは反撃に出てアムルを再びヒッタイトの影響下に置いたが、以後ヒッタイトとエジプトは恒常的な戦争状態に突入した。

エジプトの壁画に表現されたヒッタイト軍の戦車

セティ1世の死後エジプト王となったラムセス2世は再度、アムル王国の支配を目指して活発な軍事活動を行い、これを制圧した。そして紀元前1274年[1]にムワタリとラムセス2世はオロンテス川河畔のカデシュでそれぞれ自ら軍を率いて戦った(戦闘の経過はカデシュの戦いの記事を参照)。この戦いでは双方が自国の勝利として記録しているが、実際には引き分けに近かったとされる。ただしヒッタイトはアムル王国とカデシュ王国に対する影響力の保持に成功した。

その他の事績[編集]

その後ムワタリはシリア地方での動乱に即応する体制を整えるために、首都をシリア地方により近い南方のタルフンタッシャに遷した。ただしタルフンタッシャへの遷都は、旧都ハットゥシャが北方のカシュカ族に近すぎてたびたび攻撃を受けていたのを嫌ったためともされる。ハットゥシャの総督には弟のハットゥシリを任命した。またムワタリが西方のアルザワ英語版の一小国であるウィルサWilusa)の王アラクシャンドゥAlaksandu)と結んだ条約の写しが発見されている[2]。そのほかアダナ近郊のシルケリ・ホユックでは彼の名が刻まれた摩崖碑文が発見されているが、こうした屋外のヒッタイト碑文としては最古の例とされる。

ムワタリが死んだ時、不和だった王妃との間に息子がおらず、古いヒッタイトの継承法に基づいて庶子のムルシリ3世フルリ語:ウルヒ・テシュプ)が王位を継いだ[3]

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  1. ^ 編年の仕方によってエジプト史、およびそれに依拠するヒッタイト史の年代は説による大きいばらつきがある。カデシュの戦いは以前は紀元前1286/5年とされていたが、最近は1274年を採る例が多くなっている
  2. ^ 「ウィルサ」=「イリオス」、「アラクシャンドゥ」=アレクサンドロスの転訛と解釈して、それぞれホメロス作『イリアス』で著名なトロイアパリスを指すとする説があり、現在のトロイア調査団はその見解に従っている
  3. ^ 他に同じくフルリの天候神に因んだ名を持つ「ウルミ・テシュプ」という子供がおり、のちにタルフンタッシャ副王となったムワタリの息子クルンタと同一人物とする意見もあるが、「ウルミ」はフルリ語で「女奴隷」という意味なので、娘でクルンタとは別人だった可能性も否定できない

外部リンク[編集]


先代:
ムルシリ2世
ヒッタイトの大王
紀元前1290年‐1272年頃
次代:
ムルシリ3世