マルッティ・パーヴォラ

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マルッティ・パーヴォラ。

マルッティ・ラウリ・パーヴォラ(Martti Lauri Paavola, 1898年7月20日 - 1990年3月26日)は、フィンランドピアニスト

ヤナッカラの保険監督官のクスタ・パーヴォラとヒルマ・カールソンの家に生まれる。1917年から1920年までヘルシンキ音楽研究所、1920年から翌年までベルリン高等音楽院、1921年から1924年までライプツィヒ音楽院で学び、1927年から断続的にパリで研鑽を積んだ。1924年から音楽評論を始める。1926年から演奏活動を始め、19274年から1965年までシベリウス音楽院と名称を改めた母校で教鞭をとった。1948年にはプロ・フィンランディア・メダルを受賞。

主な門下にエイナル・エングルンドティモ・ミッキラ等がいる。

脚注[編集]

出典[編集]

  • Paavola, Martti Lauri i Vem och vad 1967