ベルンハルト・ジークフリート・アルビヌス

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ベルンハルト・ジークフリート・アルビヌス

ベルンハルト・ジークフリート・アルビヌス(Bernhard Siegfried Albinus、1697年2月24日 - 1770年9月9日)は、ドイツ生まれのオランダ人の解剖学者、医師。

生涯[編集]

アルビヌスは、彼の父ベルンハルト・アルビヌス(1653年 - 1721年)が医学診療の教授をしていたフランクフルト・アン・デア・オーダーで生まれた。1702年に父はライデン大学へ医学教授の座を移し、1709年に12歳のベルンハルト・ジークフリートはそこでヘルマン・ブールハーフェニコラウス・ビドローら教師によって医学を学び始めた。

ライデン大学で医学を修めた後、パリへ行き、そこでセバスチアン・バイヤン(1669年 - 1722年)やジェイコブ・ウィンスロー(1669年 - 1760年)らの下で特に解剖学と植物学に専念した。1年のブランクの後に、ブールハーフェの推薦で1719年にライデン大学へ解剖学手術講師として呼び戻された。2年後にはこれらの領域の教授の地位で父の後を継ぎ、短期間でヨーロッパにおける最も著名な解剖学の教授の一人となった。その教室には学生だけでなく、多くの開業医も出入りしていた。

1745年には、アルビヌスは医学診療の教授に任命され、彼の弟フレデリック(1715年 - 1778年)が解剖学教授を引き継ぎ、もう一人の弟クリスチャン(1700年 - 1752年)と共に多くの称号を獲得した。アルビヌスはライデン大学で2期学長を務め、ライデンで死去した。

Tabulae sceleti et musculorum corporis humaniロンドン、1749年)

アルビヌスは、1747年にライデンで出版されたほぼ自費制作の記念碑的書籍「Tabulae sceleti et musculorum corporis humani」でよく知られている。アルビヌスの図譜の作図と板刻のほぼ全てはヤン・ワンダラー(1690年 - 1759年)による。解剖図の科学的正確性を向上させるために、アルビヌスとワンダラーは、画家標本の間に特定の間隔で四角い枠に紐を張ったネットを置き、そのグリッド・パターンを用いて像を複製する新しい手法を考案した。図版はペトルス・キャンパーのような学者によって、ワンダラーが描き加えた風変わりな背景などが強く批判されたが、アルビヌスはワンダラーを擁護した。