ヘンリー・メイン

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ヘンリー・ジェームス・サムナー・メイン: Henry James Sumner Maine1822年8月15日1888年2月3日)は、イギリス法学者社会学者政治評論家。イギリスにおける歴史法学の創始者とされている。


人物[編集]

早くから秀才として名高く、1847年に25歳の若さで母校ケンブリッジ大学教授となって、ここで7年間民法を教えた。だが、次第に法学部の授業の無味乾燥ぶりに疑問を抱き始めるようになり、1850年には弁護士資格を取って授業の傍ら、法曹や社会運動にも参加するようになった。そんな時にサヴィニーの歴史法学の動きを知って、法と文明の起源の探究に関心を抱き、ローマ法イギリス法スラブ法との比較研究に取り組むようになった。1852年にはロンドン法学院教授に招かれてローマ法を講義して博識と語り口の上手さで評判を得た。1861年、彼はこれまでのローマ法研究の成果を『古代法』(Ancient Law)として発表した。彼は法学や社会を理解するにはその背景にある歴史の理解が重要であると説き、法理論に歴史学及び比較法学の理論を導入して史料による基礎付けを行おうとした。彼は同書の中で家父長制血縁集団から発生した身分法が、集団の連合による社会の形成によって契約法へと進化していく過程を描くとともに、血縁的関係と地縁的関係という対立概念の存在を唱えて、その後のイギリス法及び法制史研究に大きな影響を与えた。また、政治的には保守主義の立場に立ち、1857年にはイギリス東インド会社廃止論争に参加して廃止反対論を唱えた。この論争で注目されたメインは『古代法』刊行の頃より、イギリス政府よりインド総督府の参事会法務官としてインドにおける立法に参画するように依頼されるようになった。だが、主治医は彼が病弱であり、インドの自然環境の厳しさから「インドに行ったら3ヶ月持たない」と翻意を促したため、メインは一旦は辞退を申し出た。だが、度重なる要請とインドの法制に対する関心から1863年にインドに赴任、後にカルカッタ大学副学長を兼務した。彼はここで仕事の傍らインド法制史の研究に励み、1869年に帰国した頃にはすっかり壮健体となっており、周囲を驚かせたという。この年にはオックスフォード大学で比較法学の教授となり、1871年にはインドの星勲章を授与され、1877年にはケンブリッジ大学トリニティ・ホールの学長となる。更に1887年には同大学の国際法教授となった。この間に1871年に『東と西の村落共同体』(Village Communities in the East and the West)などインド法制史研究の成果をイギリス法制史に生かす著作を著した。一方、1885年には唯一の政治学の著書である『民衆政治』(Popular Government)を著して保守主義の立場から自然状態説を批判している。1888年に静養先のフランスカンヌで病死した。

参考文献[編集]

  • 小山貞夫「メーン」『社会科学大事典 18』(鹿島研究所出版会、1974年) ISBN 978-4-306-09169-6
  • 佐々木伸一「メイン」『世界歴史大事典 Encyclopedia Rhetorica 19』(教育出版センター、1986年)
  • 松井透「メイン」『歴史学事典 5 歴史家とその作品』(弘文堂、1997年) ISBN 978-4-335-21035-8