ノート:純丘曜彰/過去ログ1

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統合提案[編集]

自証対証衆証の3記事ですが、現状はあくまで純丘曜彰氏が独自に提唱している概念に過ぎず、とても単独記事を維持できるほど学会等で支持を得ている状況にあるとは思えません。個人的には独自研究として削除依頼を出したいぐらいですが、一応出典が示されていることもあり、本記事への統合という形にするのが現状では妥当なところかと。--COCKY(私はWikipediaの管理者では有りません) 2008年12月4日 (木) 17:05 (UTC)

Wikipediaにおいて回避すべき「独自研究」の意味を根本的に取り違えていらっしゃるのではないかと懸念しておりますが。--219.126.229.54 2008年12月5日 (金) 03:44 (UTC)

現時点では純丘曜彰の独自研究の域を出ていないので統合すべきですね。しかも内容もしょぼいし。--hyolee2/H.L.LEE 2008年12月5日 (金) 03:49 (UTC)
(コメント)Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは演説をする場所ではありませんでは「個人の随筆や論文を載せる場所ではありません。個人的な意見や提言を記述しないようにしてください。」との記述がありますし、Wikipedia:独自研究は載せないでも、独自研究と判断されるものの一つに「新しい造語を、その造語が何らかの評判の良い資料に由来することを示さずに、導入したり使ったりする。」があります。その観点から言えば、自証対証衆証の3語とも、現状の記事内容では純丘曜彰氏が提唱する造語の一つに過ぎず、現状では論理学の世界で一般的に通用する単語となっているとは判断できません。実際Googleで「"自証" "対証" "衆証"」で検索した結果も、Wikipedia以外にヒットするものが皆無です。論理学の世界で一般的な言葉であれば、他の資料が何かしらヒットして然るべきでしょう。確かに東海大学出版会という第三者の手で出版されている書籍に依拠しているという点でWikipedia:検証可能性はぎりぎり満たしているかもしれませんが、Wikipedia:特筆性を満たすほどではなく、単独記事ではなく純丘氏の記事内で記述すれば十分と考えます。--COCKY(私はWikipediaの管理者では有りません) 2008年12月5日 (金) 04:05 (UTC)
(コメント)cockyさんはやはり文脈を混乱していると思います。「個人の随筆や論文」や「独自研究」というのは、記事の執筆者の、ということです。つまり、記事執筆者(IPさん他?)が、記事の対象に関する記事執筆者本人(IPさん)の論文や独自研究を載せることは好ましくない、ということであって、研究者についての記事において、記事の対象である研究者の研究内容がその研究者の論文であり独自研究であるのは、むしろ当然のことでしょう。また特筆性についても、cockyさんは間違っているようです。Wikipedia:特筆性には、「特筆性の尺度は、「聞いたことがある / ない」、「この話題が注目に値すると思う / 思わない」という尺度と同じではありません。」「特筆性はウィキペディアの編集者によって直接判定されません。特筆性に関しては、ウィキペディアに掲載するかどうかは、その話題が信頼できる公表された著作に含まれるかどうかを反映します。」とされており、上記の概念は信頼できる公表された著作に含まれている以上、特筆性はあり、ウィキペディアの編集者であるcockyさんが主観的に判定しようとしていることこそ、Wikipediaにおいてむしろまさに禁じられていることでしょう。ついでながら、Googleや2ちゃんねる、はてななどのネット情報は、Wikipediaでは出典として認められないことも知っておいてください。--Defocuscontrol 2008年12月5日 (金) 07:23 (UTC)
確かにWikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料では、出典元として「一般的に、最も信頼できる資料は、査読制度のある定期刊行物、大学の出版部によって出版されている書籍や学術誌、主流の新聞、著名な出版社によって出版されている雑誌や学術誌です。」との記述が有り、本件について東海大学出版会が発行する書籍に依拠している点は「一見」これを満たしているように見えます。しかし、百科事典において単独記事として成立するためには「当該概念が提唱者以外の第三者による一定の支持を受けていること」が著作等で証明されている必要があると考えます(なお、あくまでこれは「個人的主観」ですので、今後の議論の結果如何では変更することはあり得ます)。出典が示されている以上、純丘氏の記事内で自証対証衆証について解説することには反対しませんが(だから統合提案の形にしているわけです)、現状では単独記事を維持する必要はないと判断します。
あと、GoogleやYahoo!などの検索結果は確かにWikipediaの「出典」とはなり得ませんが、「著名性」を判断する上での判断基準の一つとしてはそれなりに有用性がありますし、実際Wikipedia:削除依頼での審議でも、サーチエンジンテストの結果を踏まえ「著名性がない」として削除された記事は多数存在します(面倒なのでいちいち例は挙げませんが)。--COCKY(私はWikipediaの管理者では有りません) 2008年12月5日 (金) 08:31 (UTC)
日本版ガイドラインWikipedia:ページの分割と統合によれば、統合は1「同一概念や事物」2「必要以上に細切れ」3「共通点のあるスタブ」の三つの場合となっており本記事との関係には該当していません。それゆえCOCKYさんが「第三者の支持」や「著名性」という新たな基準を用いて統合を提案するのであれば、まず統合に関する日本版ガイドラインのページの方で、あなたが考える新たな統合基準についてきちんと提案し議論して合意を得て出直していらっしゃることをお勧めいたします。ここでいきなりあなた個人の主観的な百科事典観を展開することはまったくの場違いです。そもそも大衆人気が重要なサブカルや芸能関係ならともかく、真偽を論じる学術分野については検索エンジンによる著名性を記事の存廃や統合の基準とすることは根本的に不適切でしょう。それなら大衆化されえない専門概念のほとんどすべてが削除対象になってしまい、人の知らないことを説明する百科事典としての意味をなさなくなります。とくに哲学関連では言葉が多重的な意味を持つために専門研究者の間でさえも対応する外国のテクニカルタームの訳語の統一がはかられていない場合が少なくなく、現実には同一概念の同定だけでもかなり熟練を要します。失礼ながらあなたの編集履歴を拝見するに、高度の専門性を要する百科事典の哲学分野の記事についてあなたが提案や議論をすることには無理があるのではないでしょうか。--219.126.228.51 2008年12月5日 (金) 18:20 (UTC)
自証対証衆証は明らかに「共通点のあるスタブ記事」だと思いますが。それに問題とすべきなのは多分「大衆化されている」云々ではなく研究者や専門家の間に行き渡っているかどうか(つまり引用されているかどうか)でしょう。上の概念が第三者に引用されている例が示されない限りは一研究者が提唱しているだけの概念にすぎないということになるかと思いますので、単独記事としておくことには疑問を感じます。--125.192.154.46 2008年12月14日 (日) 08:25 (UTC)
日本語版ガイドラインのいう「スタブの共通点」は、統合元と統合先の共通点で、たとえば統合元と統合先が同一人物の別名であるのであれば共通点があるといえるでしょう。しかし存在論の概念と人物の説明を共通であると主張するのは明らかな無理があります。また、たしかに自証対証衆証の三つは共通点があるとも思いますが、対概念や三対概念は、記事統合してしまうと個別の専門術語での検索が困難になる恐れがあり、これまでも哲学系では対概念や三対概念等はそれぞれに分離して記事を立てています。学術論文や大学出版部の専門書は、通常すでに専門研究者による複数匿名第三者の客観的な査読制度と公開支持を絶対条件としており、それゆえWikipediaは上記のように国際共通基準としてそれらを「最も信頼できる資料」としています。逆にもし引用の多少を記事の基準にしてしまうと、早急に説明されるべき先端学説が排除され、誤謬である通俗学説が大量にWikipediaにはびこる危険性があるからです。COCKYさんや125.192.154.46さんがこのWikipediaの根本方針そのものに異を唱えるのであれば、Wikipediaを去っていただくしかないでしょう。いずれにせよ上の219.126.228.51さんも書いているように、ここは記事一般の新たな統合基準についての個人的な意見を議論する場ではないと思います。--長野リンゴ一番 2008年12月14日 (日) 09:51 (UTC)
ええと、概念とその概念を提唱している人物とが同じ記事内で説明されることを「無理」だとは思いません。ジャック・ラカンなどでは記事内で用語の説明もされています(用語の単独記事も立ってますけど)。「検索が困難」というのはインターネット・サーチエンジンでの検索なのかWikipedia内での検索なのか曖昧ですが、後者の意味であればリダイレクトが使えますので別に困難にはならないです。前者の場合ですが、他者からの引用が確認されていない現状、純丘曜彰さんの著作(一冊?)にしかみつからないと思われる概念をネット検索するような人はいないでしょうから(その前に「純丘曜彰」で検索するでしょうね)あまり意味はないと思います。
哲学専用のガイドラインがあるわけではないようですが、Wikipedia:特筆性を見るかぎり、記事の対象となるもの(話題)の条件は「主題そのものから独立した立場にある情報源に基づいた、複数の、些細でない形で発表された著作(作品・仕事)に取り上げられていること」であり、「主題となっている人物や主題となっている事物のクリエータ、著者、発明者などから直接得られる著作は、適用できる出典から除外されます」ということのようです。これにしたがえば提唱者自身の著作にしか見つからない概念は特筆性を欠いており、したがってWikipedia:特筆性に書かれているように統合というかたちで対処するのが良いのではないかと思います。
「早急に説明されるべき先端学説が排除され・・・」というのはちょっと宣伝的な考え方じゃないかな・・・。それが事典に独立した記事として書かれるに足る学説であるなら、いかに最新の学説であろうと提唱者以外の人の著作や報道にも見つかるはず、というのがWikipedia:特筆性から読み取れる指針であると思います(まあ、まだ草案なんですけどね。方向性は固まってると思いますよ)。--125.192.154.46 2008年12月14日 (日) 12:58 (UTC)
逆に言うと、提唱者以外の人の著作や報道でまったく触れられていないような「先端学説」を記事にしても良いということになってしまえば、Wikipediaがさほど業績のない学者や研究者(別に純丘曜彰さんのことを言っているのではないですが)の自己宣伝の場になることを許してしまうことになるでしょう。--125.192.154.46 2008年12月14日 (日) 13:56 (UTC)追記
研究者の記事内でその研究者の研究内容がとりあえず語られることは当然にあるでしょう。しかし、それはむしろその後その研究内容の詳細を独立させるべきスタブだからであって、それらの記事内スタブの存在をもって逆に、研究内容は研究者の記事内でスタブとして語られるべきである、統合され吸収されるべきである、ということには論理的になりません。
つぎに「特筆性」ですが、日本版(国際版)ガイドライン草案において「主題そのものから独立した立場にある情報源」というのは、たとえば自民党のことを自民党が自分で書いた文章などというのはダメということであって、当該案件の場合、存在論のことを純丘氏が書いた文章ですから、アルパカのことを動物学者が書いた文章と同様に、その研究対象とその研究者は「独立した立場にある」と言うことができます。また、「些細でない形で発表された著作(作品・仕事)に取り上げられている」という点も、既出の「信頼できる情報源」である以上、当該案件は条件を満たしていると言うことができます。(複数性については後述。)さらに、「主題となっている人物や主題となっている事物のクリエータ、著者、発明者などから直接得られる著作は、適用できる出典から除外されます」というのは、原文によれば先の「独立した立場」についてコメントとして詳述した部分で、先の例ように自民党のことを自民党が自分で書いた著作や、ある書籍についてその出版社が広告で語った記事などは、特筆性の根拠としての出典の存在としては認められないということです。研究対象である存在論は、研究者である純丘氏がクリエートしたり著作したり発明したりしたものではなく、以前から独立してある問題なので、純丘氏はその「クリエータ、著者、発明者など」には該当しません。「さほど業績のない研究者の自己宣伝の場になる」との危惧については、さほど業績がなければ(たとえば第三者による公式の査読を経ていない自費出版の(疑似)研究書を出典とする)、そのようなものはWikipediaにおける「信頼できる情報源」としての条件を満たさず、ただちに排除されることになるので、125.192.154.46さんの問題指摘は的はずれです。(むしろ通俗的にネットやニュースでよく記事になっても、専門的には認められていない学説(なにかを食べてやせるなど)も多いのでは。)
さて著作の複数性ですが、125.192.154.46さんはこの当該案件の記事を「提唱者自身の著作にしか見つからない」「提唱者以外の人の著作や報道でまったく触れられていない」ということを根拠に特筆性を欠くとして主張を展開していますが、それはまったくの勉強不足です。純丘氏の言う「自証」「対証」「衆証」という術語自体もけして新しいものではなく、中国仏教哲学の唯識論(法相宗など)において専門の研究者の間では昔からよく知られているものです。そんなことはそれこそシロウトでもgoogleなどでチェックすればすぐにわかることでしょう(旧字体や簡体も忘れずに)。専門的な術語なので、ネット検索では数万数千程度のヒットですが、この専門分野では千年数百を越えて論じられてきたむしろ古い重要概念のひとつであり、これらの術語は、純丘氏の出典以外にも、いくらでも古今の重要書籍に出てきます。とくに「自証」は曹洞禅、「対証」は漢方、「衆証」は法制史などの分野でも、それぞれの特殊な意味で発展的によく使われています。記事にすると独自研究になってしまうおそれがありますが、純丘氏はこのように伝統的な中国仏教哲学の定義を熟知したうえで西洋哲学の自意識や弁証法の概念と関連させて再定義したものと思われ、「提唱者自身の著作にしか見つからない」などというのはまったく事実に反する論外の話です。
いずれにせよ今後記述が多様に充実させられるべきこれらの概念についての記事が新たに起こされからわずか数時間で、専門性に欠ける編集者によってただちに統合が提案され議論されることは異常ではないでしょうか。それも本来であればガイドラインに沿って粛々と統合を提案すべきであるのに、明らかな誤解に基づいて提案され、その後もなおあちこちのガイドラインを探し出して強弁され続けるのは、Wikipediaとして醜態と言わざるをえません。そもそも最初の提案者本人であるCOCKYさんがこの提案に関する議論を自分で責任をもって継続する気がもはやないのであれば、満了の一月を待たず早々に提案を取り下げるべきではないかと思います。また、たとえ形式や内容が不十分なスタブであったとしても、きちんとした専門知識をもって発展性のあるものとないものを見極めることが大切です。--長野リンゴ一番 2008年12月15日 (月) 01:51 (UTC)
まずそもそも自証対証衆証の記事はいずれも「純丘曜彰の存在概念の一。」と定義されていますよね? しかも長野リンゴ一番さんの言い分では、その古くから知られているという概念と純丘曜彰さんが用いている概念との関わりも(本当に関係があるのかということでさえ)はっきりしないようです。そのような状態では現在の三つの記事を「古くから使われている用語だから独立した記事とすべき」としたり「純丘曜彰さんの著作以外にも出典がある」とする主張は少々根拠が希薄に思われます。それと、まあ中国語などはわかりませんし旧字体や簡体の出し方もよくわからんので検索はしてないですけど、「昔からよく知られている」ほどのものであるならそれこそフツーに検索してももうちょっとヒット件数があるのではないですか。「シロウトでもわかる」というようなイジワルを言わないで具体的な出典を教えていただきたいです。
ジャック・ラカンの例をだしたのは「人物の記事内で用語や概念の説明をすることは別に無理ではない(統合は無理ではない)」ということを示すためでためであって「用語や概念はぜひとも人物記事のなかに組み込まなければならない」ということを言うためではないですよ。現によく知られている哲学上の用語はいくつも独立した記事が立っているでしょう。どうもこちらの論旨を混同されているように感じるのですが・・・
存在論に対してなら純丘曜彰は独立した立場にあるでしょうね。しかし存在論の問題系の中で純丘曜彰さんが独自に定義した自証対証衆証に対しては独立した立場にはないです。
「さほど業績がない」と言ったのはですね、仮に本を一冊か二冊出しただけの人物(くどいようですが純丘曜彰さんのことを言っているのではありません)であっても現状のガイドラインではその人物の記事くらいは書けるんですよ。しかしその本がどれほどの評判を得たのかも明らかでないような段階で、その本の主張をWikipediaのあちこちに書かれるようなことになってはまずいだろう、ということです。
どうもこれ以上話しても平行線かなーという感じがしてきたので、コメント依頼をだしておきました。若干専門的な話になってきたようですし、他の方の意見も伺ってみましょう。--125.192.154.46 2008年12月15日 (月) 10:21 (UTC)
125.192.154.46さんは「フツーに検索」さえしていないのではありませんか。新字体だけでも「自証」はgoogleで700万件以上がヒットし、また、一般的な国語辞典(大辞泉=yahoo!辞書等)にさえも説明が出ています。田辺元西田幾多郎戸坂潤認識とは何か)、井筒俊彦新田義弘『思想』の論文タイトル)などにおいても、中国仏教哲学の伝統を踏まえてカントやヘーゲルなどのドイツ観念論のSelbstbewusstsein(自意識)という重要術語に「自証」の訳語が当てられています。これらの著名な哲学者たちの出典のいずれもまったく知らないなどという人がこのような専門分野の記事の問題に口を挟むこと自体、いかがなものかと思わざるをえません。
このような既存の術語の専門的説明の一つとしてとりあえず純丘氏の定義が記事とされたのであり、当然今後これらの記事はこのタイトルの下に仏教各派、他の哲学者による定義についても詳細にその異同が記述されるべきものです。したがって、純丘氏個人の概念として純丘氏の研究者としての説明の記事に統合されてしまったのでは、百科事典における術語の配置として誤謬であり、今後のこれらの記事の発展を妨げることになります。--長野リンゴ一番 2008年12月15日 (月) 12:12 (UTC)
自分の方が専門家なんだから黙って従え、みたいな態度はやめてもらえないですかね。傍証したうえで他の利用者を説得できるかどうかが問題なのであって、知識量の多寡で問題の正誤がきまるわけじゃないんですよ。「立証責任は提案者の側にあります」というのはいったい何を根拠に言われているのですか? Wikipediaでは「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。このため、執筆者は出典を明記すべきです。定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません」(Wikipedia:検証可能性)。左の一文を見ても出典を示す責任があるのは明らかに記事の執筆者・または「定評のある情報源」が存在すると主張する側でしょう。出典を求める側(除去・削除・統合の提案者・希望者)に出典を示す責任があるのではないです。
「自証」はなるほどyahoo辞書に載ってますけど「仏語。他に頼らず、自分の力で悟りを開くこと。」としかなくてやっぱり純丘曜彰さんの自証との関連が明らかでないですよね。そもそも「純丘曜彰の存在概念の一。」は「とりあえずの定義」には見えないですよ。全然関係ない地名やら会社やらがヒットするのに700万件というのも無理があるでしょう。まあ「自証」に関しては、西田幾多郎や井筒俊彦の定義をきちんと書いていただけるのなら、その記事に純丘曜彰さんの用語をつけくわえるという形でなら単独記事を立ててもよいと思いますけれど(現状の定義では反対ってことです)。では「対証」「衆証」はどうなんでしょうか?。--125.192.154.46 2008年12月15日 (月) 12:51 (UTC)
出典は明記され、「信頼できる資料」としての十分条件を満たしている。それを一方的に、出典とは認めない、と主張しているのはあなたです。そもそもWikipediaの記事の正当性は、他の利用者を説得できるかどうかが問題なのではありません。この根本が間違っているかぎり、Wikipediaにあなたの居場所はありません。ガイドラインにもあるとおり、Wikipediaの記事の正当性は「信頼できる資料」があるかどうかです。専門家が既知の資料について文献批判として根拠を挙げて信頼できるできないを議論するのであればともかく、当該の資料そのものを見たこともない人物がそれを信頼できるとかできないとか議論しようとすること自体、いったいなにをしたいのかまったく理解できません。議論としては、他には用例が無いと主張するあなたに対して、反例としての用例をたった一つ挙げるだけでも論理的に十分です。それ以上、ここで事細かにあなたに説明する義理はありません。時間があれば私も記事の方に加筆するように努力しますのでそれまでお待ちください。--長野リンゴ一番 2008年12月15日 (月) 13:43 (UTC)
他の方のコメントを待ちたいので、とりあえず私からのコメントは控えますね。--125.192.154.46 2008年12月15日 (月) 14:36 (UTC)

東海大学出版会は東海大学の出版部門です。純丘曜彰が教員として在籍している大学ですので、所属していれば出版できると見ても良いでしょう。--hyolee2/H.L.LEE 2008年12月5日 (金) 04:14 (UTC)
(コメント)教科書ならともかく硬派の専門書は赤字になるので、たとえ所属大学の系列出版社であっても、外部から科研費などの出版助成金を獲得してこなければなりません。しかし、折からの予算削減で審査はとても厳しく、そんなに簡単ではありませんよ。--Defocuscontrol 2008年12月5日 (金) 07:23 (UTC)

コメント依頼[編集]

(当人同士の議論になっちゃってるので、コメント依頼から来ていただいた方は下線部以下にコメントをお願いします)

上記の議論が平行線を辿っている状態ですのでコメント依頼を提出しました。論点は自証対証衆証の三つの記事を当記事純丘曜彰に統合すべきかどうかです。これまでの議論では自証対証衆証の三つの概念について、その概念の提唱者である純丘曜彰さんの著作『論理・行動・生活そして経営』(東海大学出版会、 2001年)をWikipedia:独自研究は載せないWikipedia:特筆性を満たす出典として認められるかどうか、といったことが主な論点となっています。以下この問題に関するみなさん(第三者の方)のコメントをお願いします。--125.192.154.46 2008年12月15日 (月) 10:21 (UTC)

議論が平行線なのではなく、提案者側の「線」が無いから議論にならないのです。そもそもすべての立証責任は提案者の側にあります。統合提案者側が独立記事にする必要がないことを立証できない(する気がない)のであれば、統合提案の方が却下されます。この統合提案はガイドラインの正しい理解に基づく根拠がなく、提案としての体を満たしていません。第一、元来の提案者であるCOCKYさんがこの統合提案に関する議論をすでに放棄してしまっている以上、これ以上この統合提案を議論すること自体が無駄であると考えます。

もし125.192.154.46さんがCOCKYさんに代わって新たな統合提案者としてこの議論を継続したいのであれば、他の方を頼る以前に、まずあなた自身がこの統合提案の正当性を具体的な根拠を挙げガイドラインに沿って整理して立証し直すべきです。それ無しでは議論にならず、他の方も(私も)コメントのしようがありません。もっとも私は、もともと最初からかなり専門的な記事の話であるのに、いいかげんな憶見と不真面目な態度で絡み続けていること自体を甚だ不謹慎であると捉えていますが。--長野リンゴ一番 2008年12月15日 (月) 12:46 (UTC)

上で言いましたように立証責任(出典を示す責任)は統合の提案者にあるのではないです。私自身はガイドラインに沿って問題を立てている(Wikipedia:特筆性を満たす出典が示されていないので統合すべき)つもりですけど。--125.192.154.46 2008年12月15日 (月) 12:54 (UTC)
すでに明記され「信頼できる資料」としての十分条件を満たしている出典について、あえてその欠格性を主張して、統合の根拠とするのであれば、その欠格性(なぜそれが「信頼できる資料」ではないのか、なぜ「一見」にすぎないのか)を統合提案者側がきちんと説明し立証しなければなりません。--長野リンゴ一番 2008年12月15日 (月) 13:11 (UTC)
や、だからそれが「信頼できる資料」と見なせるかどうか意見が一致しないから他の方の意見も聞こうと言ってるんじゃないですか。(ちなみに出典が正当なものであるということを立証する責任も出典を示す側にありますよ。なぜって正当性が確認されることを含めての「出典」なんですから)。--125.192.154.46 2008年12月15日 (月) 13:20 (UTC)
「信頼できる資料」については既出のとおり「一般的に、最も信頼できる資料は、査読制度のある定期刊行物、大学の出版部によって出版されている書籍や学術誌、主流の新聞、著名な出版社によって出版されている雑誌や学術誌です。」とWikipediaの公式方針に明記されています。そして当該の記事に挙げられている出典は大学の出版部によって出版されている書籍です。したがってそれはWikipediaにおいて「最も信頼できる資料」です。いわゆる三段論法。あなたがこのWikipediaの公式方針に異議を唱えるのであれば、やはりWikipedia以外に行かれた方がよいのではないでしょうか。--長野リンゴ一番 2008年12月15日 (月) 13:52 (UTC)
他の方のコメントを待ちたいので、とりあえず私からのコメントは控えますね。--125.192.154.46 2008年12月15日 (月) 14:36 (UTC)

コメント依頼から来ていただいた方は以下にコメントをお願いします--125.192.154.46 2008年12月15日 (月) 13:20 (UTC)

コメント)コメント依頼から参りました。「自証・対証・衆証」という三対概念について、Wikipedia:特筆性に書かれている、「主題となっている人物や主題となっている事物のクリエータ、著者、発明者などから直接得られる著作は、適用できる出典から除外されます」という点を満たした出典はありますか? なければ、「自証・対証・衆証」という概念自体を独自研究とみなして問題ないと思います。--~超~ 2009年1月25日 (日) 07:18 (UTC)
コメント依頼から参りました。信頼できる資料などの文書から、ウィキペディア内に記述できることは確かだとは思いますが、方針文書の中に独自研究を載せない#理論に関する記事の扱い方という部分があり、自証の項目内に純丘曜彰氏の考えを記述するべきかについては、現段階で一次資料しかないため少数派の意見・考え方に見え、他の二次資料のある内容と同列で書かれていることに違和感を感じます。この点について、議論の余地があると考えます。またこちらは素人意見なのですが、三対概念ということなので、一緒に書いてあったほうがわかりやすいのでは?とも思います。--しろぼる 2009年2月24日 (火) 15:17 (UTC)

高学歴者の皆さん、もっと解り易く書いてください。[編集]

 このWikipediaは、性別・学歴・職業・社会的立場・思想・信条の別なく何人でも自由に利用できる百科事典サイト。そうでありながら、学者さんやら思想家さんなどの紹介文となると、やたらに難しい専門用語を繋ぎ合わせてあるだけのように思え、私のような学歴皆無の者には「何がなんだか」まったくわかりません。この純丘先生の「思想」の節にしてもその通り。何を研究なさっている方なのか皆目見当もつきません。(ただ、学問のための学問、一般の生活には役に立ちそうもないことばかり、ということはよく解りますが。)  この純丘先生の項を立ち上げたのは大方、先生の信望者の方か、教え子か、家族か親戚か、はたまた御本人なのか、写真までUPしてあるところから察すると相当に近しい高額歴の方かと思われますが、どうかもっと一般人にも解り易いように書いていただきたい、と思います。  解る人だけ解るように書いたので百科事典の記事とは言えますまい。   --111.188.23.161 2012年9月14日 (金) 01:49 (UTC)荒野の無頼で一匹狼のさすらいのプロ・ガンマン

その人物像[編集]

 この項の純丘先生、この項に於いてもAmazan内の「自己紹介」に於いても、やたらと輝かしい学歴・職歴をご披露なさっており、かつてはたった一冊小説を書いた(あまり売れていないようで発行から二年たってもプレビューなし)だけで「小説家」、ミュージカルひとつ作った(上演の見込みなし)だけで「作曲家」を標榜なさっておられましたが、その人物像はどんなものなのでしょうか? Amazon内の商品プレビューを読むと学者らしく、どれも商品・作品の構造・分析から始めて「いい」とか「もう少し」とか言われておられますが、どうも制作者を見下しておられるような文面が多いようですし、ブログ「純丘曜彰教授博士の哲学手帖~感性・芸術そして日常」で「またぞろ4kテレビだってさ」という文章を発信した際、4kテレビ開発に乗り出したメーカーや技術者を「電気屋の馬鹿ども」とこきおろし、さらに「電気屋ども」と蔑称しておられます。畑違いながら、同じ「研究者」に対してこの言葉はいただけません。先人・他人に対して敬意を払わないような、こういう人物が教育者としてどうなのでしょうか? 氏の人柄について詳しい方の書き込みを希望します。--126.213.148.252 2012年9月14日 (金) 04:51 (UTC)大河好き。

 ●そう言えば、削除された純丘氏本人からのコメントも相当傲慢でしたね。

保護明けの編集について[編集]

一週間の保護となりましたので一応場を設けます。わたしは当初は、出典がない記述は除去する考えでしたが、このノートページで度々意見が上がっていることもあり、テンプレートを貼った上で出典を求め、もしそれでも集まらなければ除去すべきという立場でした(この辺りの流れは利用者‐会話:106.188.44.155に)。その後、出典を付けてくださる方が現れましたので、静観し除去しないという立場を取るようにしました(利用者‐会話:Promoted_rook)。

利用者‐会話:106.188.44.155利用者‐会話:ときまるでは、各ユーザーによりたびたび同じ編集・除去が行われたため、その旨質問しています。

個人的には、上記他の方のコメントにもありますが、思想節がもうちょっとわかりやすくならないかな? と思っています。哲学的な事柄ですからあまり平易にできないことは承知していますが、たとえば記事内に名前の出ているヘーゲルやヴィトゲンシュタインの記事の記述に比べても難解であるように思われます。特に説明なしに出てくる造語(と見える単語)の理解は極めて困難です。--Aoioui会話2016年6月21日 (火) 13:26 (UTC)

職歴の「ブレーン」について(ナムコ社長室、朝まで生テレビ)[編集]

「ナムコ社長室付き」ブレーンについては、氏のブログ以外に出典がありません。また、「朝まで生テレビ」ブレーンについては、氏の著書である『きらめく映像ビジネス』の著者紹介が出典とされていますが、著者紹介は著者が文章を用意する場合もあるため検証を要すると考えます。

より客観的な出典をご存じの方は、追記をしていただけるとさいわいです。 --Keys会話2019年1月10日 (木) 06:59 (UTC)

「思想」節は専門的となっている[編集]

「思想」節が、氏の思想を説明するというよりは、氏が携わってきた研究の歴史のように書かれています。そのため、氏の思想について書かれている部分が相対的に少なく、一般読者の理解を困難にしていると考えます。

たとえば第一段落の途中で、「ハイデガーの存在論ですら主観的認識論であるとし」という氏の基本的な立場が説明され、「他者によって補証された行為が主体の存在を逆措定する、とした」というのが氏の思想であるとの記述があります。しかしこの間にあるハイデガーサルトルといった哲学者についての基本的な記述はなく、「サルトルの間主観的な」というように、Wikipedia では記事がない用語を用いて説明しているため、サルトルを詳しく知っている人間でなければ理解はできません。(私自身、サルトルについて詳しく知りませんし、間主観が何のことかわかりません)

多少単純化してでもハイデガーやサルトルの思想(の主幹)がどのようなもので、一方で氏の思想(の主幹)はそれとどのように違うのか、といった対比で書かれることを望みます。

また繰り返しになりますが、Wikipedia では未作成項目へのリンクも多く存在します。「しだいにテーマに近づく物語のスパイラルアップ構造を論じた」という氏の思想について書かれた文では、その説明で最も重要である、氏が論じたとされる「スパイラルアップ構造」という項目が未作成となっており、この文から氏の思想を読み解くことはできません。

以上より、氏の「思想」の項目は、哲学を専門としていない私のような人間にとっては難解で理解できないものとなっています。 専門家の方々による解説をお願いします。 --Keys会話2019年1月10日 (木) 07:43 (UTC)

Reseachmapmapさんとの編集に関する議論を転載[編集]

(この節は、ページ本体の編集について、利用者:Keys会話 / 投稿記録 / 記録が、利用者:Reseachmapmap会話 / 投稿記録 / 記録さんと行った会話について転載します。オリジナルは「利用者‐会話:Keys#記事「純丘曜彰」の取り消しについて 」にあります)--Keys会話2019年1月12日 (土) 08:35 (UTC)

Reseachmapmapさんのユーザ名を間違えていました。大変失礼しました。--Keys会話2019年1月12日 (土) 08:42 (UTC)


こんにちは。

あなたの編集をオフィシャルソースで再確認し、追加した者です。これを取り消すと、あなたの編集よりさらに戻って取り消すことになりかねません。また、追加された情報源を落とすことはWikipediaの趣旨にそぐわないかと思います。軽率は編集はお控えください。   Reseachmapmap会話2019年1月10日 (木) 01:13 (UTC)

こんにちは。
当該ページの要約にも記載しましたが、オフィシャルソース(自己公表された情報源)は情報源として有効ではありません。詳細は以下のページをご参照ください。
Wikipedia:信頼できる情報源#公表者自身についての記事内での自己公表された情報源
--Keys会話2019年1月10日 (木) 02:31 (UTC)
しかし、おっしゃる通り、自己公表された情報源によらない変更も少なくなかったため、その部分についてはあなたの編集をそのまま変更しました。ご確認ください。
--Keys会話2019年1月10日 (木) 02:54 (UTC)
再度、恐縮。
積極的に編集に参加していただけるのはありがたいのですが、もうすこし精緻に仕事をしませんか。
1) 出典について
集英社の本は、自己公表ではありません。同様に、科学技術振興機構のresearchmapも、自己公表ではありません。したがって、これらは、OKです。残るブログ部分については、代替となる出典を、うちや他の館のレファレンスなどの文献で調べて確認します。(他の人も調べられるように、とりあえず文章を残し、要出典にしておきましょう。)
2)取材と寄稿の混乱
「寄稿」は、本人を執筆者とする記事です。他の執筆者が言及しているものを「寄稿」とは言いません。同様に、「出演」は、本人がスタジオないし中継で直接に発言することで、番組が取材して言及するものを「出演」とは言いません。また、個別の事例を本文にすると、その他が無いかのような印象操作になる虞があり、具体的な事例は注釈にすべきです。
3)可読性について
多分に主観的なものかと思います。事典としては、他の哲学関連の記事一般に比して、とくに専門用語が多く可読性が低いという根拠を示さないと、このラベルは使えません。
4)参考文献について
参考文献は、記事の出典ではありません。注釈で示される記事出典については、信頼できる情報源でなければなりませんが、参考文献は外部リンク同様、読者の参考に供するのみで、その真偽をWikipediaが論じる立場にはありません。
Reseachmapmap会話2019年1月10日 (木) 04:18 (UTC)
こんにちは。
それぞれの項目に個別に返答しますね。
1) 出典について
著者紹介については、誰が書いているのかがはっきりしている、つまり氏以外の方が書いたなら問題ありませんが、それを確認できません。著者紹介以外で客観的に証明できるものが必要だと考えます。しかし、確かに削除してしまわず「要検証」が妥当な気がしますので、そのように変更しますね。
2) 取材と寄稿の混乱
用語についてはおっしゃる通りです。内容については、各媒体において出典が記されているのが1点だけだったため、1回の出演であると考え、あえて明記しました。複数回の事実があるならば、あなた自身がおっしゃるように「その他が無いかのような印象操作になる虞」を避けるために、2, 3個の例を列挙してから「など」としたほうがよいのではないでしょうか。
3) 可読性について
ご存じかもしれませんが、まず前提として、Wikipedia は百科事典であり、学術書ではありません。わかりやすく記述されることが求められています。
Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアはマニュアル、ガイドブック、教科書、学術雑誌ではありません
Wikipedia:専門的な記事も分かり易く
主観的というのは、おっしゃる通りです。この点には意見の相違があるようですので、他の専門家に検証してもらうために「専門的」テンプレートを用いようと思います。あとでノートに理由を記載しますので、ご参照ください。
4) 参考文献について
その意見に全面的に賛同するわけではありませんが、今回のように氏のブログのように情報の出本が明らかである場合、あなたのように考える方がいるなら残しておいてもいいのかもしれません。
どうぞよろしくお願いいたします。
--Keys会話2019年1月10日 (木) 06:40 (UTC)
1) 出典について
本の本文以外の部分(著者紹介、帯の惹句(コピー)、カバーデザインなど)の著作権と責任は、一般に出版社の発行人が負います。それを疑うべき合理的理由もなしに疑いを呈するのは無理があります。したがって、残る要検証は、ナムコについてのみにもかかわらず、職歴全体に要検証ラベルを付けるのは、あえて誤解を誘うことになります。
2) 取材と寄稿の混乱
各媒体、各雑誌にわたっている以上、まさに「2, 3個の例」であり、「など」とするのが妥当です。また、「番組で批判を行った」というのは、事実誤認です。この回にオリンピック問題を扱い、番組が彼に言及したのは確かですが、著作権検索上、彼はこの番組のこの回に出演はしていません。
3) 可読性について
わかりやすいかどうかは、読む人によるでしょう。この記事など、哲学関連のわりには、かなりましな方だと思いますが。記事全般の問題であれば、この記事にのみとくにラベルやノートを付けて特記議論する理由がわかりません。どの記事もわかりやすくするのは、当然のことです。他の記事をさしおいて、この記事をとくに急いで改善する必要があると思う合理的理由を挙げられないと、あなたの「悪意」が疑われるだけでは?
なんにしても、もうすこし繊細精緻に編集を進められませんか。専門的な著作権の知識や情報源の裏取り無しに、個人的な思い込みで大きく消したり書き換えたりするのは危険であり、苦労して情報を集めて記事にしてきたこれまでのおおぜいの執筆者に対して礼を失するかと思います。匿名のWikipediaでも、法的に訴えられれば、編集者名を開示せざるをえなくなることもありえます。世間で疑われるだけでも、いつ火がつくかわからないのに、こういうやりかたはとても心配です。慎重に御熟慮ください。
Reseachmapmap会話2019年1月10日 (木) 07:54 (UTC)
1) 「本の本文以外の部分(著者紹介、帯の惹句(コピー)、カバーデザインなど)の著作権と責任は、一般に出版社の発行人が負います」としても、その著書にかんしての著作者と責任とはべつに、Wikipedia にこの記載を追加するひとは著者紹介が、著者以外によって書かれた(自己公表された情報源)ことを検証可能とする責任を持ちます。しかしそれを検証する方法があるとは思えず、そうすると記述すべきではない、と考えます。
2) Wikipedia が文科省基準を採用する理由はありません。私とあなたの間で合意がみられないので短く表記しましたが、これでも合意できない場合はノートで議論しましょう。
また「など」の件ですが、媒体が複数ある場合は、媒体が列挙できないほどあるわけではないですし、また媒体それぞれの方針・スタンスがあるため、他の媒体をご存じなら「など」とせずに列挙することが、より氏のことを説明するのに役立つと思います。
テレビ番組についてですが、雑誌・書籍とちがって検証する手段にとぼしく、本来は出典としては認められません。私が編集する上で削除せずにいたのですが、氏が2020東京オリンピックのエンブレム問題について言及したことは広く知られており、その部分と関連して表記されていると考えていたためです。出演していないのであれば、削除しましょう。
3) 可読性については、私が考えることを氏のノートに記載しました。ご参照ください。
最後に、
法的に訴えられる、実名が開示される、炎上のおそれがある、といった点へのご配慮ありがとうございます。しかし私は自身で責任と覚悟をもって編集を行っていますので、そのようなご配慮は無用です。
--Keys会話2019年1月10日 (木) 08:20 (UTC)


著者紹介が、著者以外によって書かれたことを検証可能とする責任
第三者によって公的に出版された出典の存在を確認することが「検証」であり、それ以上の事実確認は「Wikipediaではないこと」です。
「より氏のことを説明するのに役立つ」
Wikipediaは、「情報を無差別に収集する場」でもありません。
どの記事であれ、先人たちに敬意を持って、そのレガシーを合理的に少しずつ改善していく編集ではいけませんか。あなたがいくら責任や覚悟をもっても、Wikipediaはあなただけのものではないことを御理解いただけませんか。どうか御熟慮ください。
Reseachmapmap会話2019年1月10日 (木) 08:40 (UTC)

Researchmap のプロフィールは自己公表の情報に該当するか否か[編集]

さんが、職歴のソースとして科学技術振興機構が解説するresearchmapの「プロフィール」を挙げているのですが、この項目は登録者によって記載する部分なので、出典としては認められません。

ソース: Researchmap の「お問い合わせ」ページにある「利用マニュアル STEP-2 編集してみましょう」(PDF)の6ページと7ページ

--Keys会話2019年1月12日 (土) 09:21 (UTC)

元をだれが書いたかにかかわらず、それを政府が認定し、政府が公表している以上、政府資料であり、我々が「信頼すべき情報筋」です。
--Promoted rook会話2019年1月12日 (土) 09:33 (UTC)
立場のある研究者が虚偽の情報を書くはずがない、という性善説に基づいて、本人が書いた内容の検査や調査をしていないだけであり、科学技術振興機構が認定しているわけではありません。また、「政府資料」とは何でしょうか。「政府資料」という文書の分類は、少なくとも正式には存在しません。なお、俗に政府資料とよばれるものは府省庁が発行するもので、各種白書や報告書などを指しますが、今まで独立行政法人(国立研究開発法人も含む)の発行する文書が政府資料と呼ぶ例は知りません。
--Keys会話2019年1月12日 (土) 09:55 (UTC)

「検査や調査をしていない」などと蒙昧なことを言うソースはなにか。上のマニュアルp.2にも明示されているとおり、researchmapは、当時の政府「文部省」が調査し作成した公式の科学研究費補助事業データベース(KAKEN)を引き継いでいる。当時からテュニアの教員の基本データや過去の経歴などは、本人が書いたわけではない。


--Promoted rook会話2019年1月12日 (土) 10:17 (UTC)

そもそも、学研究費補助事業データベース(KAKEN)で氏の名前を検索してもヒットしないのですが。
--Keys会話2019年1月12日 (土) 10:26 (UTC)

それは2017年から試験運用されている新しい国立情報学研究所のデータベースだ。当時の文部省のKAKENとは別。繰り返すが「検査や調査をしていない」と言うソースはなにか。

--Promoted rook会話2019年1月12日 (土) 10:44 (UTC)

なんにしても、科学技術振興機構のデータまでソースとして強引に否定するのでは、もはやあきれてまともな議論になりえない。第三者のコメントを待つことにしよう。

--Promoted rook会話2019年1月12日 (土) 10:59 (UTC)

わかりました。
では合意が得られないということで、コメント依頼を出しますね。
--Keys会話2019年1月12日 (土) 11:11 (UTC)

コメント依頼から来ました。リサーチマップも使っている研究者です。結論から言って、リサーチマップに研究者が書いているプロフィールやブログなどは自己公表された情報源だと思います。リサーチマップは研究者データベースと研究者用のSNSを兼ねるもので、自分でプロフィールを登録してSNSとして使用できるものですし、「本サービスの利用に関して、第三者(他の利用者を含みます)との間に紛争が生じた場合であっても、これを自己の費用と責任において処理するものとし、JSTに一切の負担をかけないこと」などという決まりがあり、細かい内容についてJSTは責任を負っていません。研究者が書いたプロフィールやブログなどは「政府資料」ではないはずですし、むしろ著作権や許諾などの観点からして、政府資料という扱いにされては困るものが多いはずです。リサーチマップは科研費申請などにも使いますので通常のSNSよりは信頼が置けるかとは思いますが、もっと良い情報源があればそれを使うべきでしょう。リサーチマップに比べれば、編集者が一応は見ているであろう、集英社から刊行されている本のプロフィールのほうがはるかに信頼できる情報源と見なせると思います。リサーチマップが出典として全く認められないとは思いませんが、もっと良い情報源があるのであればそちらを使うべきだと考えます。--さえぼー会話2019年1月13日 (日) 08:21 (UTC)

[[en:Teruaki Georges Sumioka]][編集]

英語Wikipediaのen:Teruaki Georges Sumiokaは、この「AfD」(削除依頼)の結果として削除されました。したがって、enへのリンクを消すところです。-- Hoary 2009年12月15日 (火) 11:03 (UTC)

「思想」項目のノートへの移動について[編集]

2019年1月に「思想」項目について、内容が複雑で理解が困難だったため専門家の方々に補筆を求めましたが、それ以降の進展はありませんでした。

またこの内容については2008年にも議論されており、専門家による補筆が困難な内容、独自研究について記されているのではないかと考えています。これらの内容についての意見はも本ノートの「コメント依頼」の項目にあります。

ページの更新履歴にも当然残りますが、専門家の方々の目に触れやすいよう、この節に転記しました。 独自研究の域を超え、百科事典として記載する価値を持っている、とお考えの方は議論させてください。

{{専門的|section=1|date=2019年1月}}

[[長尾龍一]]、[[渡邊二郎]]に師事し、[[法哲学]]を起点に、1980年代は[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]や[[マックス・ヴェーバー|ウェーバー]]を基礎として、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ヴィトゲンシュタイン]]の[[言語ゲーム]]の概念、[[日常言語学派]]の[[言語行為論]]を踏まえ、[[ルネ・デカルト|デカルト]]を嚆矢とする近代[[主観主義]]の[[認識論]]に対し、[[行為]]と行為の[[主体]]についての[[存在論]]を[[論理学]]の観点から研究。[[ユルゲン・ハーバーマス|ハーバーマス]]と[[ニクラス・ルーマン|ルーマン]]の[[社会システム]]と[[コミュニケーション]]に関する論争の延長線上において、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデガー]]の[[存在論]]ですら主観的認識論であるとし、[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]の[[間主観]]的な[[実存主義]]を発展させて新たに[[自証]]・[[対証]]・[[衆証]]という論理学的存在概念を立て、他者によって補証された行為が主体の存在を逆措定する、とした。<ref>『論理・行動・生活そして経営』本文およびあとがき</ref>

その後、純丘は[[ヴィルヘルム・ディルタイ|ディルタイ]]や[[ハンス・ゲオルク・ガダマー|ガダマー]]の[[解釈学]]における脈絡依存性([[解釈学的循環]])の考察を経て、1990年代には、経済活動における[[法人格]]や[[サービス]]、[[ブランド]]の存在性を実証的に問う。<ref>「近代哲学のドグマ」『九州東海大学総合教育センター紀要』11号, 「法人の法哲学的存立根拠について」『九州東海大学工学部紀要』26号, 「社会構成原理としてのサーヴィス」『経済社会学会年報』21号, 「ブランドエクイティの概念」『九州東海大学応用情報学部紀要』2号 </ref>

しかし、2000年代になると、一転して映画作品を題材とするようになり、行為と行為の主体を人為的に構成する、脈絡としての[[物語]]の分析、および、その創作論を[[美学]]・[[芸術学]]として探求。[[アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン|バウムガルテン]]に倣い、[[美]]とは[[真]]についての[[感性]]的[[論証]]である、と論じる。このために、純丘は[[対話]](ディアローグ)に代えて[[対為]](ディアゴーグ)と言い、プラトン以来の[[弁証法]](ディアレクティーク)に対して[[行証法]](ディアクティーク)を考えた。この行証法は、映画の中の人物相互の[[ミュトス]](元物語)においてだけでなく、映画の作り手と観客の間の[[エロキューション]](語り口)としても存在し、この2つの行証法によって映画の物語は[[T型グランド・ストラクチャー]]をなす、とした。また、映像に関しても、脚本の要素を言語的に分節化して人為的に部分カットを組み上げていく[[モンタージュ|エイゼンシュテイン・モンタージュ]]よりも、複数のカメラで実際の演技を同時多面的に撮影した[[マルチ・カヴァレッジ]]を再構成する[[モンタージュ|グリフィス・モンタージュ]]の手法を重視している。そして、映画のエピソードもまた、同一のテーマを多面的に描き出すものでなければならないとし、しだいにテーマに近づく物語の[[スパイラルアップ構造]]を論じた。<ref>「Movie Grammer & Image Technique」『九州東海大学応用情報学部紀要』 Vol.4, 「Isagogics for Cinema-Aesthetics」『九州東海大学応用情報学部紀要』 Vol.5, 「Critique of art Interpretation: The Possibility of Art-science」『東海大学総合経営学部紀要 』(2), 『エンターテイメント映画の文法』</ref>

その後、[[ポスト・モダニズム]]論に傾倒し、脈絡を転用して物語を再生産する[[お笑い]]や、[[記号]]的な[[表象]]表現形式である[[アニメ]]にも関心を広げた。<ref>「お笑いのレトリック」『九州東海大学応用情報学部紀要』 Vol.7 、「Kleine Geschichte der MANGA und ANIME」『Sommersemester 2008, Filmwissenschaft, JOGU』</ref>

近年は、創作のための実践的な[[物語論]]を深め、米国の著名な脚本セミナー講師[[ロバート・マッキー]]など、海外の研究者・創作者たちと活発に交流している。<ref>[[ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ]](マインツ大学)客員教授、[http://sumiokateruaki.blog2.fc2.com/blog-entry-33.html ボブおじさんのストーリーローグ], [https://researchmap.jp/sumioka-teruaki/ reseachmap 純丘曜彰]、GLOBAL WESTERN CONFERENCE in Germany, April 2013、ほか</ref>また、[[Youtube]]に動画「純丘先生の一分哲学」シリーズを連載している。<ref>[https://www.youtube.com/channel/UCWMt51UJ07c4HY4DGluE7MA Youtube JP チャンネル office SUMIOKA]</ref>

--Keys会話2019年4月23日 (火) 08:51 (UTC)