ノート:武蔵 (戦艦)

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。


曖昧な記述の削除[編集]

戦艦「武蔵」(第800番船)の建造時のものに加筆しました。ほんと細かいところです。こちらで所蔵している三菱長崎の「800番船建造日誌」や建造関係者自身が残したものに合致しない情報(住民目撃情報)などはとりあえず削っていますのでご確認ください。防諜対策のためのグラバー邸買収や上海銀行長崎支店の接収などについては面倒なのと印象が薄いので書いていません。--Yoshiro SAITO 2006年7月15日 (土) 12:08 (UTC)[返信]

独自研究と思われる部分や、ノートに記載されている内容について反論の無い部分を削除しました。--203.168.70.136 2008年8月29日 (金) 06:56 (UTC)[返信]

これは独自研究ではなく、元海軍だった人の話や、下の本の資料などを参考に入れたものです。 --利用者61.44.177.182 2008年9月3日 (水) 10:41 (UTC)

艦乗組員の熟練度が大きく影響し乗組員の生死を左右したとされる・・・・この部分の根拠は何でしょうか?--メルビル 2008年9月4日 (木) 03:47 (UTC)[返信]

沈没に至るまで、様々な応急対策(荷を捨てて軽くしたり、注排水の行いなど、ダメージコントロールと乗員の奮闘(双葉社の超精密3DCGシリーズの『戦艦武藏』の最後などを参照)、総員退艦までの奮闘)と、沈没までの時間によって(大和の場合は、短時間だったことと、「総員最上甲板」の命令が下された時点でも、艦内に取り残されていた人が多かった事も原因。)生死を分けたのは間違いないと思います。 そして、船を動かすのは結局は船に熟達した人間です。マリアナ沖で、翔鶴や瑞鶴よりも遙かに頑丈であるはずの大鳳が沈んだのも、艦が新造で、まだ乗組員達が完全に慣れていなかった(艦を使いこなす訓練期間は、最低半年以上を要する)というのが原因の一つだし、信濃にしても、船に慣れる準備期間が無かったこと、大和の場合、ベテラン乗組員を降ろしていた事など影響していますし、元船乗りだった元海軍出身の人達の話だったので、かなり信憑性があると思いますが。 61.44.177.182 2008年9月7日 (日) 10:10

大和の場合、沖縄戦の前に降ろしていたのは若い乗員です。ベテラン乗組員を降ろしたという記載は見たことがありません。また大抵日本艦船の生存者は、米英独と比較して少数であり、このことはあなたの論を転用すれば、日本海軍は諸外国と比較して熟練度が低いということになりますが・・・?大鳳の沈没は気化したガソリンの引火が原因で、同じことは建造後十分に時間の経過している米空母レキシントンでも起きています。大和と武蔵の生存者数の差を、<艦乗組員の熟練度>が原因と結論付けてしまうのは、あまりにも乱暴な論と思います。戦艦武蔵でも、20歳未満の若い兵が乗艦しています。吉村昭 の「戦艦武蔵」(を読んで見てください。 以上の署名の無いコメントは、203.168.78.216会話/whois)さんが[2008年12月8日 (月)00:19 ]に投稿したものです(GFによる付記)。

情報の信憑性[編集]

「この影響で主砲が発砲不可能になったという証言もあるが、全砲塔の統一射撃が不可能になっただけである。」とありますが何故断言できるのですか?情報源は何処でしょう?搭乗員の生き残りが執筆したのですか?--125.194.230.219 2008年3月19日 (水) 03:48 (UTC)[返信]

参考文献の「戦艦 武蔵」読んでますか?読んでいるならもう一度ちゃんと読み返してみてください。(特に第一、第二次空襲後あたりの記述。)なんだったら別の出典示しましょうか?佐藤和正著「太平洋海戦3 決戦篇」P.391「この衝撃のために前部方位盤が旋回不能となり射撃指揮が不可能となってしまった(中略)「武蔵」の主砲方位盤は遂に修復不可能だった。主砲を最大の武器とする「武蔵」にとって三基九門の主砲を同時に連動させて斉射することができなくなったのは大きな痛手であった。やむを得ず砲術長は各砲塔を独立発砲させることにする」というより、「武蔵」が衝撃によって主砲の統一射撃ができなくなったことは大和型戦艦の弱点を語る上で常識ですし、周知の事実です。ついでに言えば、「武蔵」を語る上で記録文学、ノンフィクションの「戦艦 武蔵」は必ず出てきます。吉村氏は「武蔵」取材に関して数多くの証言者からの証言を得た上で執筆していることは発表されているその取材ノートからも明らかになっていますから、フィクションではありえません。ついでに言えば、武蔵艦長猪口敏平少将の遺書にも前部射撃方位盤の故障については触れられていますし。ろくに調べもしないで「要出典」つけるのは止めてください。--GF 2008年3月19日 (水) 14:29 (UTC)[返信]
ウィキペディアは貴方の脳内常識を書き連ねる場所ではありません。基本方針の検証可能性を一度でも読んだ事は無いのですか?文句を言われたくないなら脚注をつけましょう。まあ、つけたとしても証言や意見を一方的に否定するのは中立的にどうかと思いますがね。--紅美鈴 2008年4月5日 (土) 18:59 (UTC)[返信]
脚注も何も、出典を読まれていないのですか?むしろ、私はシブヤン沖海戦の記述を扱った書籍を何冊か読んでいますが発砲が不可能になったという記述を私は読んだことがありません。出典明記を唱えられるのであれば、まずその記述の出典を明記するべきでしょう。前回私の記述した佐藤氏の書籍を記述しない理由は、吉村氏の書籍に同じことが書いてあるからです。脚注も何も、参考書籍として記述してあるのに全エピソードに対してわざわざ記述しなおさなければならないのでしょうか?そんな記事を作っていたらどれだけ記事サイズが増えるのでしょう?貴方の仰っていることは今までウィキに記載されている記事全体が対象となることを自覚してください。後、脳内常識といいますが、国立図書館所蔵の公刊戦史である「戦史叢書」にも同様記述はありますし、記事を記載するのであればある程度資料を調べたりするのは当たり前でしょう。それさえしないでその記事の信用を落とすだけの「要出典」タグを貼ること自体それまでこの記事を記載してきた他の方に対して失礼ですし、一種の荒らし行為でしょう。とりあえず貴方の行為は非常に無責任です。私の記載した記事の出典はちゃんとしているのですから、無責任に他人に文句を言って編集を丸投げする前にまずあなた自身の手でちゃんと出典を明記して編集をするほうが先決ではないでしょうか?--GF 2008年4月7日 (月) 16:55 (UTC)[返信]
証言といえば大和型戦艦の記事で当時武蔵の主砲砲撃指揮関係にいらっしゃった方も「方位盤故障後、後部指揮所で指揮続行」と証言されているそうですから、これに関しては私は出典知らないのですが、そちらにも噛み付いていて見てはいかがでしょうか?あちらの記事の方が大和型戦艦に関して本当に詳しい方が一杯いらっしゃいますし、出典書籍も豊富でしょうから。貴方の「要出典」の疑問も氷解するでしょうし、何ならそれを聞いて編集しなおしてください。出典明記したいのであれば、そのくらい貴方が当然するべきことですよね?--GF 2008年4月7日 (月) 17:20 (UTC)[返信]
実際の搭乗員の証言があるのに特定の文献で搭乗員の証言を完璧に否定することは中立的に宜しくないのですよ。せっかくの記事がGF氏の論文になってしまいますからね。つーかあんた攻撃性が過ぎますよ。ぐだぐだ言われると全部読む気も起きません。少し落ち着いて書き込むことをお勧めします。--紅 美鈴 2008年4月7日 (月) 18:27 (UTC)[返信]
では簡潔に。脚注の使い方に示されている通り過度の脚注は避けるように示されています。下らない顕示欲から他人任せの無責任なタグ貼り付けをするくらいなら自分で編集してください。貴方は他人の書いた文章に対してはケチを付けるくせに自分の論拠に関しての出典すら示さないのですね。あまりにも無責任な編集ですね。今回はリバートさせていただきます。繰り返すようなら、査読依頼を出して他の方に評価してもらいましょう。--GF 2008年4月8日 (火) 05:59 (UTC)[返信]
脚注が必要かどうか、コメント依頼を行ないました。--GF 2008年4月8日 (火) 06:32 (UTC)[返信]

コメント依頼から伺いました。Wikipedia:井戸端/subj/出典はどこまで明記すべきか?がご参考になるのではないかと思います。この中で、管理者でありビューロクラットでいらっしゃるKs aka 98さんは、できれば書かれている情報すべてに出典をつけるのが望ましく、脚注も利用すべきとして、チンドン屋の例を挙げています。参考書籍を示すだけでは、個々の記述のどの部分が、参考書籍のどのページに拠るものか、第三者にはわかりませんので、できるだけ細かく書かれるのがよいかと思います。また、Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にもご参照下さい。なお、ご議論の際は、Wikipedia:ウィキケットにご留意されるようお願いいたします。--Rollin 2008年4月8日 (火) 14:11 (UTC)一部追記。--Rollin 2008年4月8日 (火) 14:17 (UTC)[返信]

私もコメント依頼からここの議論について知りましたが、Rollinさんと同じ意見です。つまり、脚注が必要かどうかといえば、必要です。
脚注になりうるものとして、「出典注」と「説明注」があり、前者は各記述の出典を詳細に示すもの、後者は補足的な説明を脚注に追い出す形で記述するものということになります。GFさんの指摘されたHelp:脚注#スタイルと用法でいう、GFさんの主張される「過度の脚注は避けるように示されています」は、説明注を使いすぎるなという意味です。参考文献があるから出典注は不要という意味ではありませんし、そのような主張はウィキペディアでは受け入れられていません。--Tamago915 2008年4月9日 (水) 00:02 (UTC)[返信]
従ってGF氏は敗北したので文献から該当記述を調べて本文内に記すべきです。20分もあれば終わる作業でしょう?それでも実際の搭乗員の証言を否定するのは中立性何でないかの問題からどうかと思いますが。--紅 美鈴 2008年4月10日 (木) 06:35 (UTC)[返信]
脚注については了解しましたが、その議論となるべき否定した搭乗員の証言については出典が示されていない上、執筆者も出典も存じ上げないので消去してしまっても良いですか?出典知っている方いましたらご報告お願いします。出典示されるまでとりあえず脚注に関しては保留しておきます。出典が無いのでは中立性もクソもないので。一週間待ってみて出典示されないようであれば消去の上脚注します。--GF 2008年4月11日 (金) 12:28 (UTC)[返信]

戦闘終了の退避行動や総員退去・生存者の数について[編集]

武蔵は戦闘で大損害を受けたあと コロン湾を目指しました。コロン湾には過去、他の日本海軍の損傷艦が応急処置をしたこともあります。武蔵がそこを目指したのは応急処置のためであり、座礁して陸上砲台になるためではありません。大和の水上特攻を混同されているのではないでしょうか?またそのようなところで陸上砲台となっても、戦略上何の価値もありません。また1番主砲、2番主砲とも火薬庫注水のため使用不能であり、対空火器も殆どが破壊され、たとえ残っていたとしても、殆ど弾切れの状態だったようです。

また武蔵の生存者が1000名以上だったことは、戦闘終了から沈没まで数時間あったことと、沈没前に駆逐艦を接舷して負傷者の移動を行っていたこと、沈没がシブヤン海という内海であったことが影響しています。大和は総員退去の発令から10分程度で沈没しており、しかも戦闘中であったため救助活動もままなりませんでした。また外洋で波も高いことも良い影響はなかったでしょう。死者の数で錬度に言及してしまうなら、日本海軍はアメリカ海軍より錬度で劣っているということになります。アメリカ海軍は早い時期に損傷艦の戦闘海域からの撤退や他艦からの救助隊の投入、迅速な避難を行っており、艦船が沈没した場合でも死者の数は日本海軍より少ないですよ?以上より<生存者は後の信濃 大和よりも遙かに多いが、これは艦乗組員の熟練度が影響されたともいわれる。>という文章は削除が望ましいと思います。

ついでにいうと空母は戦艦より元々乗員が少ないです。また当時の信濃では航空機関連の乗員も乗艦していませんでした。元々乗員が少ない状態で沈没していますから、生存者の数が少ないのも当然です。(死者も少ない)--メルビル 2008年6月25日 (水) 08:14 (UTC)[返信]

信濃との舷側装甲の違い[編集]

信濃について論ずるのは、どうかと思いますが、水面下の防御力については、武蔵と信濃を比較した場合少なくとも設計上は信濃の方が優れています。信濃には410ミリの舷側装甲がないので、武蔵より魚雷に対して脆弱・・・という意味合いの記載がありますが、410ミリなのは、水面上の部分で、水面下の装甲について言うなら 武蔵と信濃は同一の厚さのものが採用されています。また信濃ではバルジへのコンクリート充填、3重底の採用など、大和武蔵より一歩進んだ面さえありますので、誤った記載です。また記載そのものの内容についても、敢えてここで言及する必要も疑問ですので、削除された方が良いのではないでしょうか?--メルビル 2008年6月25日 (水) 08:28 (UTC)[返信]

武蔵のバイタルパートが打ち抜かれていないという記載について[編集]

沖縄特攻時の大和は弱点である後部副砲付近と後部艦橋付近被弾が引き金となり、最終的にそれによって艦内主要防御部(ヴァイタルパート)を破られた可能性が強いが、武蔵ではそれは無かった・・・・・という記載がありましたが、確かに武蔵においては、爆弾で打ち抜かれたという確定的証拠はありませんが、それは大和でも同じです。大和では爆弾が200ミリの装甲防御をされている中甲板を爆弾が貫通して、その内部で炸裂したことがあったのでしょうか?

双葉社のCG本の『大和型戦艦』(2006年)及び、学研の大和関係資料などでも、後部副砲近辺の後橋付近の被弾、艦内出火が影響して最終的にヴァイタルパートを破られたと結論づけられていることと、前部2番主砲塔から艦体が真っ二つに千切れている海底の大和の状態を見れば、艦内火薬庫というヴァイタルパートを破られていることは明白という意見もあるようですが、船体が2つに裂けたのは、転覆によって2番主砲塔の弾薬庫が誘発したためであり、後部艦橋付近への爆弾命中と火災とはなんら関係がありません。2番主砲塔と後部艦橋は100メートル近く離れています。2番主砲塔と2番副砲を混同されているのではないでしょうか?あと大和の沈没現場で2つの副砲は損傷の無い状態で発見されており、後部艦橋部分のバイタルパートも、後部艦橋部分から4階層も下にある厚さ200ミリの水平装甲を貫通する必要があるが、この被害は低高度で進入したヘルダイバーによる250キロ爆弾2発によるものであり、バイタルパート内部を破壊することは理論的に考えられず、またその報告も無いため、間違っているでしょう。本にいかなることが書いてあっても、きちんとした資料や証言に基づいたものでは、信用に足りません。

あと魚雷についてはどのように判断されるか判りませんが、武蔵においては機械室、缶室が短時間のうちに大浸水を起こして、持ち場作業員が全身水死している区画があります。(これは大和でも同じだと思います)これは<武蔵のバイタルパートが打ち抜かれていないという>という表現が適切なんでしょうか?少なくとも漏水で徐々に浸水した場合なら別かもしれませんが、魚雷の炸裂によって水面下の舷側装甲を含めて防水区画の隔壁が破壊されているなら、打ち抜かれていないとという表現は不適切でしょう。--メルビル 2008年6月29日 (日) 03:25 (UTC)[返信]

大和型は副砲が弱点なのは勿論ですが、副砲周囲や最初の後橋の破壊により、副砲周囲に被弾した事と、消火作業が追いつかなかった事が結果として爆沈の結果を生んでいます。その最初の被弾と、二番砲塔部の断裂と水蒸気爆発も、最初の被弾による延焼と無関係ではなく、ダメージコントロールが追いつかなかった事は事実であり、結果的に被弾による浸水と、消火作業が繋がらず、二番砲塔弾薬庫の爆発は、最初の攻撃による被弾の影響が大きいのは事実です。

武蔵は確かに爆発はしましたが、大和のように弾薬庫が爆発したなどという記述はありません。バイタルパートは火薬庫に集中しているので、そこを撃ち抜かれなかったのは事実だと思います。利用者:61.44.177.182 2008年9月3日 (水) 10:54 (UTC)


大和型の副砲弱点説には反論も沢山あります。具体的には大和型戦艦のノートを御覧のうえ、そちらで記載&論議してください。副砲弾薬庫が火災で誘爆したという意見にも反論が沢山あります。またバイタルパートを打つ抜かずに、内部の機械室や缶室を瞬時に水没させることは不可能です。瓶を壊さずに中に水を入れることは出来ません。--メルビル 2008年9月4日 (木) 03:44 (UTC)[返信]

それでは副砲部分の出火が最後まで止まなかった理屈付けはならないと思うし、航空攻撃が原因で両艦とも沈んだのだし、艦内出火が原因で、弾火薬庫が爆発した事は大和の場合証明されています。 また、副砲部分の引火が、結果的に消火できなかった事も沈没の原因とは無関係だとは思えないと、分析がされています。 仮に武蔵の弾火薬庫が爆発した場合、水上にまでその爆煙が及ぶと思うし、どちらも航空機による浸水によって、しかも、大和の場合は弾火薬庫に引火して爆発したので、武蔵は戦闘詳細の記述などで沈没の様子が出ている部分で違いは明らかだと思います。 61.44.177.182 2008年9月7日 (日) 10:23 (UTC)

横レス失礼。大和転覆時の弾薬庫爆発は、艦内出火原因説(副砲火災原因説=アメリカ軍主張説)と、転覆時の主砲弾転倒による信管作動説(大和砲術長主張説)と二つあったはずですが、いつ科学的に証明されたのでしょう?武蔵の転覆時の爆発は、転覆時の煙突からの海水流入による缶室の水蒸気爆発説もありますし、武蔵は艦体が見つかっていませんから打ち抜かれたか、打ち抜かれていないかを判別するには議論の根拠が無さ過ぎるかと。また、被弾により蒸気パイプをやられて機関室が一つ在室不能になり、使用不能になったことを破られたというのであれば、破られたといえるかもしれません。ただ一つ言える事は浸水が設計限界を超えていたこと。魚雷20本以上被雷しているわけですから、いくら航空用魚雷とはいえ設計耐久限界は確実に超えていることは間違いないわけで。防水隔壁に関しても自艦の航行による負荷で抜けた可能性はあるわけですから(翔鶴はこれが沈没原因の一つですし。)。--GF 2008年9月9日 (火) 13:06 (UTC)[返信]

大和転覆時の弾薬庫爆発を、艦内出火原因とするのは無理があります。転覆した瞬間に火災が弾薬庫に到達したというのでしょうか?奇跡的なことだと思います。火災が原因なら、戦闘中に爆発して沈没してしまうのが通常の考えかと思います。転覆して火炎の方向が変わったという論を出されるかもしれませんが、それにしても転覆から爆発までの時間が短すぎます。また火災があったのは後部副砲付近であり、船体が断裂しているのは2番主砲塔~前部副砲です。2番主砲塔~前部副砲で火災があったのでしょうか? 以上の署名の無いコメントは、203.168.78.216会話/whois)さんが[ 2008年12月8日 (月) 00:22 ]に投稿したものです(GFによる付記)。

削除のお知らせ[編集]

「同造船所が建造した船としては当時最大級であった「クイーンメリー号(70000t)」での経験が参考にならず、」との記載がありますが、戦前に世界最大級の客船であったクイーンメリーについてはイギリスで建造されており、三菱重工業長崎造船所で建造されていませんので削除させていただきました。--1052 2009年1月12日 (月) 19:07 (UTC)[返信]

キングストン弁の開放について[編集]

確か空襲終了後の傾斜復旧作業の一環として、缶室下のビルジ室にもぐりこんで、そこにあるキングストン弁を開放して注水したという、生々しい手記があったと思います。本の名前などは失念してしまったのですが、どなたかご存じないでしょうか?たしかビルジ室にはパイプが沢山配置されており、体にオイルを塗ってその間をすり抜けた、あとで傷にオイルが染みて痛くて苦労した。バルブは二人で開けようとしたがビクともせず、よく見たら金属製のプレートで封印してあった。封印を工具で除去して2人がかりでてこの原理を利用して開放した。最終的には海水が天井近くまでバルブから吹き上がったのを確認して撤収した・・・・という内容でした。--メルビル 2011年2月18日 (金) 18:40 (UTC)[返信]

武蔵のキングストン弁開放についての言及は、細谷四郎『戦艦武蔵戦闘航海記』(八重岳書房、1988)157頁にありました。ですが、細谷氏は副長付信号兵(第二艦橋)で、戦闘後半は信号部全滅・信号長戦死につき、信号部責任者です。恐らく報告を受けただけで作業そのものは体験しておりません。「キングストン弁を開けた」事に対する脚注/出典にはなりますが、作業実施者の手記がどの媒体に載っていたかは不明です…。--こぐ 2011年2月27日 (日) 09:13 (UTC)[返信]


お探しの「手記」ではありませんが、豊田穣戦記作品の中の「キングストン弁を開け」(『小説新潮』昭和46年8月号掲載)=「戦艦武蔵自沈す」(集英社文庫『撃沈 太平洋海戦記』所収・・・前記作品を改題したもの)によく似た記述があります。ご確認ください。--九度有会話2017年6月25日 (日) 15:47 (UTC)[返信]

削除のお知らせ[編集]

戦艦武蔵の解説趣旨にそぐわない米海軍攻撃部隊についての不要に詳細で冗長な部隊構成の説明、ならびに同様の理由での本稿掲載理由が全く不明で、無駄に頁中段を占有していた米軍艦船の画像2点の削除を通知いたします。これらは決して再掲なさらないよう警告いたします。--以上の署名のないコメントは、206.190.157.48会話/Whois)さんが 平成27年2月10日 (火) に投稿したものです(メルビル会話)による付記)。

「魚雷を受けた武蔵。左舷後方に魚雷による水柱があがっている。」という写真について[編集]

「魚雷を受けた武蔵。左舷後方に魚雷による水柱があがっている。」という説明の下に使用されている写真ですが、その写真のページに行くと、「'Yamato dodges U.S. air attack on April 7, 1945.(1945年4月7日 アメリカによる空襲を回避する『戦艦大和』)」という説明がつけられています。1945年4月7日から数えておおよそ半年前には、戦艦武蔵は既に沈没しているようなので、この写真に戦艦武蔵は写っていないと思います。従って、こちらの写真は削除したほうが良いように思うのですが、如何でしょうか。--雪割小桜会話2015年3月4日 (水) 15:02 (UTC)[返信]

異論もでないようですし、撮影日時から言っても、武蔵は写っていないので、当該写真を削除いたします。--雪割小桜会話2015年3月10日 (火) 01:14 (UTC)[返信]

ドラマの項目は独立させるべきでは[編集]

武蔵そのものとは別物ですから。 富士山を題材にしたテレビドラマを富士山の項目で述べますか?そうはしないでしょう。