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何でタイトルが「大唐帝国」なんですか?同じ調子で「大元帝国」、「大明帝国」、「大清帝国」とやっていくんですか?中文版のように素直に「唐朝」でいいと思うんですがね。 かぼちゃ 09:12 2003年8月10日 (UTC)

が解消されれば、手段にはとくにこだわりはありません。--[[利用者:Aphaia|Aphaea*]] 2004年12月3日 (金) 19:41 (UTC)[返信]

現在唐 (王朝)へのリンクもを上回って相当数あります。しかしこれからのことを考えれば唐を本記事にする方が手間は少なくなると言えます。基本的に賛成です。リンク先を張りなおすときには参加します。らりた 2004年12月4日 (土) 03:54 (UTC)[返信]

えーと、経緯なんですが、この記事がまだ[[大唐帝国]]という記事名だったころに、最初に僕が[[唐]]をリダイレクトから曖昧さ回避に変えました(ログインユーザーになったばかりの頃の編集です。懐かしい)。上の[[唐朝]]に移動するとか[[唐 (王朝)]]に移動するとかの議論はそういう状態を踏まえて行ったものだと記憶します。ただ、1年半を経て今見ると曖昧さ回避化には少し無理があったことは否めなく思いますので(後唐や南唐を唐で引く人はあまりいないと思うし、唐姓の人物の記事を唐の字から引くこともなさそう。周代の唐や日本語のからくにについての説明は唐についての記事内に簡単に書けば十分)、<nowiki>[[唐 (王朝)]]の[[唐]]へに移動に同意します。そのさい、(曖昧さ回避)を作る必要は必ずしもなく、いっそ削除依頼してもよいと思いますが、お任せします。Safkan 2004年12月11日 (土) 05:30 (UTC)[返信]

コメントをありがとうございます。曖昧さ回避を移動させるか、削除して唐の一項として書くかですね。これはお二人にお任せしたいと思います。いずれにせよ、一度「唐」を削除しないと動かせませんので、暫定的に曖昧さ回避へ動かしたあとリダイレクトの削除依頼を出し、そのあと唐を移動させる、曖昧さ回避はまたあとで削除依頼に出すかどうか考える……という事ではいかがでしょう。--[[利用者:Aphaia|Aphaea*]] 2004年12月11日 (土) 05:44 (UTC)[返信]

そうですね、それでいいと思います。では、少し異説が出ないか待ってから、リダイレクトの削除依頼に出す手続きをしましょう。Safkan 2004年12月11日 (土) 05:50 (UTC)[返信]
このまま別の意見がなければ2、3日中にリダイレクトの削除依頼に出します。Safkan 2004年12月15日 (水) 02:37 (UTC)[返信]
よろしくお願いします。ところでこの項目はWikipedia:秀逸な記事じゃないんですね。なんだか不思議な気がするので、お返事のついでに秀逸に推薦してみました。そちらへのコメントもできましたらよろしくお願いします。--[[利用者:Aphaia|Aphaea*]] 2004年12月15日 (水) 02:51 (UTC)[返信]
[[唐 (曖昧さ回避)]]のほうが削除されたので赤リンクを除去しておきます。Safkan 2004年12月24日 (金) 23:07 (UTC)[返信]


コメント[編集]

非常に充実した記事で興味深く読ませていただきました。(また後でもう一度読みますが。)

ところで、俗な話で記事に入り込む隙がなさそうなんですが、「唐辛子」や「唐揚げ」(「唐そば」もかな)といった「唐」を冠した言葉は実際唐に由来するものなのか、というのがちょっと気になりました。

お腹が空いているだけかも? ^^;)

秀逸の選考基準とは関係ないように思いますので、こちらに書き留めておきます。Tomos 2005年1月15日 (土) 13:51 (UTC)[返信]

「皇帝と宦官は対立していなかった」という記述について[編集]

これを「私論ではない」とするには無理があります。何故なら、これを私論ではないとする主張は、以下のような意味の発言になるからです。

  1. 文宗は宦官を不快に思っており、殺そうとするが失敗した。しかし文宗のやった事は敵性行為ではない。
  2. 宦官は皇帝が求めたから出来た。だから皇帝が宦官を殺そうとしても、それは敵対ではない。
  3. 宦官は皇帝によって権力を保障されていた。だから皇帝に殺されそうになっても、敵対視されていたことにはならない。

1~3は全て、命題の前件と後件の論理的な繋がりに破綻があります。と言うのも、「互いに必要とし合っていた者達が後に殺し合いをしてもそれは対立ではない」という前提に基づいた推論だからです。しかしこの前提は非常に独特な思想であり、中立的な観点(ジミー・ウェールズ氏が言うところの「絶対的で交渉の余地のないもの」)ではありません。レジアイス 2007年8月17日 (金) 13:33 (UTC)[返信]

あくまで皇帝は宦官の「専横」を押さえ込みたかっただけであり、宦官全てを殲滅しようなどとは考えていなかったということです。宦官の殲滅は朱全忠により為されますが、そのすぐ後に唐自体が滅亡します。唐朝の皇帝権力というものに宦官が組み込まれていたということです。らりた 2007年8月17日 (金) 13:51 (UTC)[返信]
あと、こちらが出典を挙げているのだからそれを確認するくらいはしてくださいな。大抵の図書館には置いてるので。らりた 2007年8月17日 (金) 13:58 (UTC)[返信]
私はこの件を相互の歴史認識に齟齬があるケースと捉えている訳ではないので、ご説明は不要です。そうではなく、「皇帝が宦官という制度をなくそうとしたならそれを『対立』と呼ぶのは正しいが、当時宦官だった者達を排除しようとするのを『対立』と表現するのは正しくない」という主張(の後半)に無理がある、と言っているのです。これを、個人の独特な言語センスに基づく主張でしかない、と考えて削除したのです。新たに直された「皇帝権と宦官勢力が独立して存在し、この両者が対立していたと見るのは正しくない」ならば、勿論文句はありません。既知の情報との矛盾はありませんし、そもそも独立して存在していたと『見ていた』のではないので。あくまで「相容れない点が実際は何もなかった」というニュアンスの意味不明な主張を削除していただけです(「直前の記述と矛盾する」はそういう意味です)。
なお、2007年8月16日 (木) 12:15の版を2007年8月16日 (木) 11:53の版との違いに気付かないままリバートしてしまったのは、純粋にこちらのミスです。失礼しました。レジアイス 2007年8月17日 (金) 15:57 (UTC)[返信]
>個人の独特な言語センスに基づく主張でしかない
ならば単に言い回しを改めれば良いだけなのにそれを削除するなどとは全く理解しかねます。
>あくまで「相容れない点が実際は何もなかった」というニュアンス
ここは意味が解りません。もうこれ以上は特に述べることも無いのでもう返事はしません。らりた 2007年8月18日 (土) 09:51 (UTC)[返信]
特定の文のみが私論だったのではなく、あるパラグラフがそのまま私論になっていたので、パラグラフごと削除したのです。箇条書きならまだしも、通常の文章はその文章を構成する複数の文が有機的な関係にあるものです。従って、中には一文を削除するだけでは文意が大きく変わってしまったり、文章が破綻したりしてしまうケースもあります。今回削除した部分も、パラグラフの論旨となるトピックセンテンスの後ろにトピックセンテンスを支持する形で複数の文があった為、パラグラフごと削除したのです。
私への攻撃が目的ではなく純粋に「意味が解らない」のでしたら、言葉を変えて説明します。まず『対立』という語は、『協調』や『親和』と対極にある言葉ですね。それにも関わらず「皇帝と宦官に対立はなかった」と記述されていた為、これを『珍妙な主張(本当にそう感じました)を事実であるかのように書いてある』と判断し、「表現を改める程度で済ませて良いものではない」と削除した訳です。最初は『皇帝』ではなく『皇帝』、『宦官制度』ではなく『宦官』と書かれてありましたが、どちらも前者は客体で後者は主体です。そしてこの客体同士は対立していませんでしたが、主体同士は対立していました。あなたは本当は当初から客体の方を指して『皇帝』『宦官』といった言葉を使ったつもりだったのかもしれませんが、実際はそういう意味の文章になっていませんでした。レジアイス 2007年8月18日 (土) 12:12 (UTC)[返信]

李氏の出身について[編集]

この加筆で付けられた文章に付いてですが、出典をお願いいたします。そもそも武川鎮軍閥の研究を軌道に乗せたのは中国の陳寅恪氏ですが、それはもう現在の中国学界では否定されているのでしょうか?私は中国学界の状況についてはほとんど知らないのですが。らりた 2007年11月3日 (土) 12:38 (UTC)[返信]

出典は出されているようですが、中国の学界の主流の意見とはちょっと思いがたいですね。中文版に見えるように陳寅恪の趙郡李氏説とかも挙げてはいかがでしょうか。--202.224.73.105 2007年12月23日 (日) 08:02 (UTC)[返信]


地図について[編集]

「8世紀前半の唐」の地図についてですが、「吐蕃」に相当する国名が「吐藩」になっているのが気になるのですが--Nagaichi 2008年3月9日 (日) 15:16 (UTC)[返信]

Template:中国の歴史における議論について[編集]

現在、Template‐ノート:中国の歴史において明を滅ぼした李自成が建国したとされるTemplate:中国の歴史に入れるか否か、また入れるとしたらどのように入れるかが議論されています。テンプレートに入れるべき王朝の範囲を決める重要な議論になるかと思いますので、の位置づけも含め、ご関心のある方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントとご教示をお願いします。--203.124.91.163 2008年10月19日 (日) 18:18 (UTC)[返信]

宮崎市定[編集]

「日本学界では、戦時中に宮崎市定が、唐室李氏の系譜は西涼の李氏とは繋がっておらず、唐室李氏は鮮卑であるとの見解を提出し(宮崎市定『東洋に於ける素朴主義の民族と文明主義の社会』冨山房〈支那歴史地理叢書第4〉、1940年1月。 )、…近年の中国では、宮崎市定説を「日本軍の中国支配のために持ち出された論説である」と見る向きもあるが、主流をなす見解ではない。」と書かれているのですが、宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』を読んだのですが、そのような事は一切書かれていませんでした。該当する部分を引用すると、「李氏は果して中原の名族、隴西の李氏なりや、はた北来の異民族の裔なりやは詮議するも無益であろう。ただ吾人は漢末以来文明化して堕落し来った中原社会が、北族の侵入によりて更生し、唐に至って面目を一新せる社会が現出したることを言えば足る。」だけです。実際、日本の学者で最も早く唐皇帝が夷狄であると論じたのは金井之忠の「李唐源流出於夷狄考」(『文化』2卷6號、東北大學文學會、1935年)です。だから、陳寅恪の論文「三論李唐氏族問題」は、金井之忠「李唐源流出於夷狄考」を引用・反論する形をとっている。

阎步克中国語版(北京大学)によると、宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』は、「文明主義」の中原社会が弱体・退廃・衰退すると、鮮卑・契丹・女真・モンゴル・満州の「素朴主義」が登場して中原社会を再生させ、現代における「素朴主義」は日本である、みたいなことを書いたから、「日本の中国侵略を助長している」と批判されたらしく、宮崎市定も自説が「日本の中国侵略を助長するものだと攻撃された」と認めているらしい。したがって、唐皇帝が鮮卑という主張(そもそも宮崎市定は『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』においてそのような主張をしていない)が「日本軍の中国支配のために持ち出された論説である」というのは、明らかに宮崎市定の著書を誤読している。繰り返しますが、退廃した中原社会に鮮卑・契丹・女真・モンゴル・満州の「素朴主義」が活力を与え、現代における「素朴主義」は日本である、みたいなことを書いたのが批判されたのであって、唐皇帝が鮮卑という主張とは関係がない(そもそも宮崎市定は『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』においてそのような主張をしていない)。

  • 宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』平凡社東洋文庫〉、1989年9月1日、116頁。ISBN 4582805086。"李氏は果して中原の名族、隴西の李氏なりや、はた北来の異民族の裔なりやは詮議するも無益であろう。ただ吾人は漢末以来文明化して堕落し来った中原社会が、北族の侵入によりて更生し、唐に至って面目を一新せる社会が現出したることを言えば足る。"。 
  • 陳寅恪 (1935) (PDF). 三論李唐氏族問題. 歷史語言研究所集刊第五本第二分. 中央研究院歴史語言研究所. オリジナルの2022-02-26時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220226082119/http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/4956kgVmyjH.pdf. 
  • 鈴木俊 (1952-07) (PDF). 隋末の乱と唐朝の成立. 史淵. 九州大学文学部. p. 13. オリジナルの2022-02-26時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220226083155/https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2335164/p053.pdf. 
  • “阎步克、胡宝国、陈爽等关于“南朝化”问题 的讨论”. 捜狐. (2019年5月11日). オリジナルの2022年2月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220226081412/https://www.sohu.com/a/313328865_788167. "但值得一提的还有宫崎市定,他在40年代《东洋素朴主义的民族和文明主义的社会》一书中提出:中国历代“文明主义”的汉政权,每当到达了饱和点,就将纤弱、颓废、腐朽下去了;长城以北的北方民族,则尚武、强悍、富有生命力,是“素朴主义”的,他们的入主才能使汉族社会的“生活力”重新振作。不过入主后又难免颓废腐朽命运,等待下一个北方民族来入主。鲜卑、契丹、女真、蒙古、满洲的入主都是如此。在现代,相应责任则应由“素朴主义”的日本民族来承担了。因为日本掌握了现代文化科技,足以调和文明和“素朴”,而不至再度陷入恶性循环。宫崎这个理论,是为日本军部的侵华政策服务的。1982年4月,宫崎在其《素朴主义与文明主义再论》一文中也承认,他的理论曾“被攻击为帮助日本的侵略主义”,并辩解说他的本意是说出历史真相。他还发挥说“四人帮时的红卫兵运动的本来宗旨,在我看来就是素朴主义的复活”。宫崎氏的历史文章颇多宏论,其对日本学界的影响极其巨大,类似“素朴主义”的观点,在日本东洋史学界是基本信念之一。从另一方面说,尽管宫崎氏的理论是服务于侵华战争的,但陈寅恪、钱穆先生都是伟大的爱国者,他们对北朝少数族政权的振作帝国体制之功,也是给予肯定的。所以我们不必因为宫崎其人,就回避有关“活力”的讨论。" --2001:268:C1C6:333C:A478:8761:1AA:AF9D 2022年2月26日 (土) 09:52 (UTC)[返信]

李氏の出自の節について[編集]

上述の節について。あまりに長すぎ、無駄に詳しすぎです。この項目は唐であって唐李氏の項目ではありません。これほど長い文章ははっきり不適切と考えます。例えていえば日本プロレスの記事に力道山の出身について事細かに書くでしょうか?現状李淵の項目にも詳しすぎる解説がありますが、とりあえずこの唐の項目の== 李氏の出自 ==節は全削除とし、適宜李淵の項目ないし唐李氏を新規作成して移設することを提案します。--らりた会話2022年10月8日 (土) 11:26 (UTC)[返信]

コメント 唐という王朝そのものの歴史を記す前に、李氏の出自を長々と書くというのは記事の構成上適切ではないと考えます。上の#宮崎市定もそうですが、元の出典からの「これ本当に必要不可欠?」と思うような長々とした引用、文学者や哲学者、軍事研究者に予備校講師といった唐代史の専門家以外の著書を多く引用していることなど、少なくない観点から難があると思います。これらの記述が唐そのものの理解に大きく資するものではないと考え、除去に賛成いたします。現状の李淵の記事にある「出生」と「李淵の出自に関する論争」も、らりたさんが指摘されているような問題点があることから整理が必要になると考えます。
ここが記事に関するノートページであることから詳細は差し控えますが、これを書いたKDDIのIP利用者(現在はIP:2001:268:C1C4:0:0:0:0:0/46会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois、当時IP:2001:268:C0C0:0:0:0:0:0/43会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)は、らりたさんが疑問を呈された趙匡胤の「趙氏の出自」(ノート:趙匡胤)の他にもの「隋室楊氏の出自」や宋 (王朝)の「趙氏の出自」などの王朝記事、楊堅の「楊堅の出自に関する論争」や、恭帝 (宋)の「遺児に関する諸説」やトゴン・テムルの「永楽帝はトゴン・テムルの子であるとする説」に永楽帝の「生母の問題について」といった人物記事も同種の問題を抱えているように思います。
これらの共通点から、過去に無期限ブロックされたある利用者群のブロック破りなのではないかという疑念を抱いています。--F.M.H会話2022年10月10日 (月) 13:57 (UTC)[返信]
F.M.Hさん、ご意見をお寄せくださり、ありがとうございます。
提案から一週間が経ちましたが、一応出典のついた長文を削除するのでもう少し期間を取って、あと2週間位は待ちたいと思います。--らりた会話2022年10月16日 (日) 08:52 (UTC)[返信]
ずいぶんと遅れましたが実行しました。--らりた会話2022年11月13日 (日) 00:27 (UTC)[返信]