ノート:レオナルド・ダ・ヴィンチ

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おお、すばらしい。ではリソース・リンク集を備忘のために。レオナルドはラテン語でしたよね。確かヴィンキウスとかいう名前を覚えていますが……!

レオナルドの仕事は未完成のものが多く、当時は余り評価もされていなかったと思われる。「万能の人」とはアルベルティのような人にいわれた言葉である。なお、最近はレオナルドが学習障害だったという説が唱えられているような。例:[2] --忠太 2004年11月7日 (日) 13:46 (UTC)[返信]



編集保護について[編集]

レオナルド・ダ・ヴィンチ 「可変IP(210.251.8.0-210.251.15.0)からの荒らし」によりsphl氏により編集保護中(2005年3月18日 (金) 04:00 (UTC)保護)  --忠太 2005年6月5日 (日) 13:08 (UTC)[返信]

保護中のため、後で訂正すべき箇所[編集]

1498年にルイ13世によるフランス軍の侵攻 → ルイ12世にして下さい。 ダヴィンチの発明の中で一番価値のあるものとしてネジと旋盤があったはずですが何故か何処にもその事にふれられていません。

科学=異端?[編集]

「科学と技術」の項に「当時の大衆的な考え方からすれば、科学=異端という考え方があったため。それよって教会からの批判や弾圧を避けるため」という文章がありますが、2点疑問があります。

  1. 「大衆的な」考えなのか、教会の考えなのか? 教会の考えでなければ弾圧を恐れる理由にならない。
  2. 当時のカトリック教会に「科学=異端という考え方」はあったのか?

当時のカトリック教会は異端には厳しかったでしょうし、レオナルドが異端の思想に通じていたかもしれませんが、当時のカトリック教会に「科学=異端という考え方」があったかというと、疑問です。当時の学者はたいていカトリック教会の聖職者を兼ねていましたし。Shinobar 2006年6月11日 (日) 13:04 (UTC)[返信]

当時ヨーロッパの他地域に魔女狩りはあり、ミラノにも異端審問所はあったようですが。概してイタリアのルネサンス期は合理的な考え方に寛容であったと思われます。無限宇宙論を唱えていたジョルダノ・ブルーノが異端として捕えられるのは1591年のことであり、レオナルドの死から70年後のことです。ガリレオ裁判は次の世紀、17世紀です。もとより、科学という言葉は科学革命の後の思想にしか使えないのではないかと思います。Shinobar 2006年6月13日 (火) 12:08 (UTC)[返信]

レオナルドの遺骨[編集]

本項レオナルド・ダ・ヴィンチでは「その後、墓が暴かれてしまい、遺骨の行方は分からない。」とのことですが、アンボワーズ城の項目には「約60年後にサン・フロランタンの跡地が発掘されると、骸骨1体と、ダ・ヴィンチの名の一部が刻まれた石が見つかった。これが現在サン・ユベールの教会堂に保存されている骸骨である。」とあります。矛盾してないでしょうか。 --忠太 2008年10月8日 (水) 15:43 (UTC)[返信]

ダ・ヴィンチの遺骨は行方不明、というのが定説です。「アンボワーズ城」の件の脚注は意味が取りにくい文章ですね。見つかった遺骨がレオナルドのもののようにも取れるし、そうでないようにも取れる、典型的な悪文です。鈴木早智子 2008年11月11日 (火) 09:01 (UTC)[返信]

記述ミスでしょうか[編集]

通りすがりの者ですが。 「生涯」のところに“しかし、「セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」という名前が与えられたことと”という記述がありますが、これは“しかし、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」という名前が与えられたことと”ではないでしょうか? レオナルド・ダ・ヴィンチについては全くの素人なので、これが正しいのか、記述ミスなのか分かりません。--以上の署名のないコメントは、210.191.133.152会話/Whois)さんが 2010年11月12日 (金) 12:32 (UTC) に投稿したものです(211.1.219.126による付記)。[返信]

「エピソード」の節を見ていただくと、彼のフルネームは「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」であることがわかります。セル・ピエロの息子であることを表す「ディ・セル・ピエロ」が入っているということは、今風にいえばセル・ピエロがレオナルドのことを認知していたことの証左である、という文脈だと思いますので、「しかし、「セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」という名前が与えられたことと」で問題ないかと思います。--211.1.219.126 2010年11月12日 (金) 14:26 (UTC)[返信]

現在進行テンプレートについての説明[編集]

白駒さんより{{現在進行}}についてのご質問がありましたので説明します。このテンプレートは「新作がみつかった」と報道を受けて添付したものです[1]。単に最近報道されただけで新しいことがおきたわけでもないのすが、適当なテンプレートが見当たらなかったのでこのテンプレートを使用しました。アイーダ 2011年7月19日 (火) 02:31 (UTC)[返信]

  1. ^ 例えば[1]
◆さっそくのお返事をありがとうございます。事情は了解しました。しかし、このテンプレートは、近い将来ほぼ確実に状況が変わる記事に付されるものと私は理解しています。「この記事は現在進行中の事象を扱っています」という文面も齟齬があり、私のように「どこが現在進行中なのだろうか」と読者が困惑するおそれがあります。代案としては、(1) このノートでニュースを報告するに留める (2) ニュースを出典として加筆する、などでしょうか。英語版には en:List of works by Leonardo da Vincien:Salvator Mundi がありますので御参考までに。--白駒 2011年7月19日 (火) 11:52 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

レオナルド・ダ・ヴィンチ」上の8個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月22日 (金) 02:52 (UTC)[返信]

生涯について[編集]

私の所持する文献には、次のようにあります。

翌1503年にはフィレンツェにもどって、パラッツォ・ヴェッキ内の大会議室の壁画「アンギリ合戦」を準備しだす一方、この年から「モンナ・リザ」の制作を開始し、四年を費やして完成した。
杉浦明平、レオナルド・ダ・ヴィンチの手記

この記述は本文の記述と矛盾するので、おそらくどちらかが間違っていると思います。--真田 悠希会話2023年2月6日 (月) 11:38 (UTC)[返信]