ナルヴァ包囲戦 (1704年)

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ナルヴァ包囲戦
大北方戦争

ナルヴァに入るピョートル1世
1704年6月27日 - 8月9日
場所ナルヴァ, スウェーデン帝国 (現エストニア領)
結果

ロシアの勝利

衝突した勢力
スウェーデン帝国 ロシア・ツァーリ国
指揮官
ヘニング・ルドルフ・ホルン・アフ・ランツィエン (POW) ピョートル1世
ゲオルク・ベネディクト・フォン・オギルヴィ
戦力
歩兵 3,800人
騎兵 1,300人
20,000人[1]:697
被害者数
死傷 3,200人
捕虜 1,900人
死傷 3,000人以下[2]

ナルヴァ包囲戦 (ロシア語: Осада Нарвы, スウェーデン語: Belägringen av Narva) または第二次ナルヴァの戦いは、大北方戦争中の1704年6月27日から8月9日にかけて、ロシア軍がスウェーデンナルヴァを攻撃した二度目の包囲戦[3]

ナルヴァ再侵攻[編集]

かつてロシア軍が圧倒的少数のスウェーデン守備兵に敗れた第一次ナルヴァの戦いから4年が経っていた。ロシアのツァーリであるピョートル1世は、軍勢を立て直して再びナルヴァ征服とスウェーデン領イングリア占領を目指した。この地は、かつて1617年にロシアがスウェーデンに割譲した地域の中でも、補給線の結節点として重要な地であった[1]:697ボリス・シェレメーテフ率いる2万人のロ位あ軍は6月24日にタルトゥを占領し、次いでゲオルク・ベネディクト・フォン・オギルヴィ率いるロシア軍がナルヴァを包囲した。これに対するヘニング・ルドルフ・ホルン・アフ・ランツィエン少将率いるスウェーデン守備隊は、わずか歩兵3,800人、騎兵1,300騎であった[1]:697

包囲戦と両陣営の損害[編集]

ナルヴァの記念碑

3度にわたる強襲の末、ナルヴァは1704年8月20日に陥落した。入城したロシア軍はスウェーデン守備兵や住民を虐殺し始め、ピョートル1世が制止するまでに数百人が殺害されている[1]:69。ホルンをはじめ数人のスウェーデン将校と約3,200人の負傷したスウェーデン兵が捕虜となった。対するロシア軍の損害は3,000人ほどとされているが、中には1万人以上と推定する説もある[2]

その後[編集]

8月、ピョートル1世はこの町でナルヴァ条約に調印し、ポーランド・リトアニア共和国内乱でスウェーデンと戦っているサンドミェシュ連盟と同盟を結んだ。

9月11日、ナルヴァの生存市民が街の公会堂の中庭でピョートル1世に忠誠を誓った。これによりナルヴァはロシア・ツァーリ国に併合された[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Tucker, S.C., 2010, A Global Chronology of Conflict, Vol. Two, Santa Barbara: ABC-CLIO, LLC, ISBN 9781851096671
  2. ^ a b Военный энциклопедический лексикон. Часть 9-я. СПб, 1845, с. 376
  3. ^ Dupuy, Richard Ernest; Dupuy, Trevor Nevitt (1986). The encyclopedia of military history from 3500 B.C. to the present (2 ed.). Harper & Row. ISBN 0-06-181235-8 
  4. ^ Петров А.В. Город Нарва, его прошлое и достопримечательности. СПб, 1901, с. 175

関連項目[編集]