タルモン=サンティレール

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Talmont-Saint-Hilaire


地図
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏
(département) ヴァンデ県
(arrondissement) レ・サーブル=ドロンヌ郡
小郡 (canton) タルモン=サンティレール小郡
INSEEコード 85288
郵便番号 85440
市長任期 マクサンス・ド・リュジー
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes du Talmondais
人口動態
人口 7263人
2013年
人口密度 81人/km2
住民の呼称 Talmondais
地理
座標 北緯46度28分05秒 西経1度37分01秒 / 北緯46.4680555556度 西経1.61694444444度 / 46.4680555556; -1.61694444444座標: 北緯46度28分05秒 西経1度37分01秒 / 北緯46.4680555556度 西経1.61694444444度 / 46.4680555556; -1.61694444444
標高 平均:m
最低:0m
最高:57m
面積 89.53km2
Talmont-Saint-Hilaireの位置(フランス内)
Talmont-Saint-Hilaire
Talmont-Saint-Hilaire
公式サイト Site officiel
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タルモン=サンティレールTalmont-Saint-Hilaire)は、フランスペイ・ド・ラ・ロワール地域圏ヴァンデ県コミューン

地理[編集]

コミューンにあるタルモン城は、かつてのタルモン公爵領の本拠地であった。タルモン公爵領は、かつてのバ・ポワトゥー地方の西の端にあたった。丘の上に建てられた城は、その守備設備が実際に補強されている。大西洋の海水が一日二回濠を洗うせいであった。

歴史[編集]

  • 11世紀、アキテーヌ公ギヨーム5世・ド・ポワティエは忠実な家臣の一人ギヨーム・ル・ショーヴにタルモンの地を授けた。彼はダンジョンを建設し、11世紀半ばには城を拡張した。中世半ばには修道院を備え付け、モット・アンド・ベーリーと庶民の住宅は城塞の陰で少しずつ成長していった[1]
  • 12世紀、アキテーヌ女公アリエノール・ダキテーヌとフランス王ルイ7世の結婚によって、タルモンはフランス王の権限の下に入った。城を守っていたギヨーム・ド・ルゼの裏切りを懲らしめるため1138年に城は燃やされた。1152年にアリエノールとルイ7世の婚姻無効が宣言されると、アリエノールはイングランドヘンリー2世と再婚した。よって広大なアキテーヌ公領はフランス王国との係争地となった。城塞は当時のタルモン卿ラウル・ド・モレオンによって補強されている。彼はアキテーヌ公でもあったリチャード獅子心王の家臣で、フランスからの攻撃を恐れてのことだった[1]
  • 領主権はその後モレオン家に、そしてトゥアル子爵家、そしてアンボワーズ家に移った。
  • 15世紀、ルイ11世はお抱えの歴史家フィリップ・ド・コミヌ(fr)にタルモンを授けた。
  • 16世紀、城はアンリ・ド・ナヴァールによって包囲された。そしてダンジョンは17世紀にリシュリューによって解体された。イングランドとその同盟国がポワトゥーに継続的な足がかりを置かないようにするためであった。
  • タルモン最後の領主、ヴァンデ戦争でカトリック王党軍についたアントワーヌ=フィリップ・ド・ラ・トレモイユは1794年に死刑となった。
  • 1974年、タルモンはサンティレール・ド・タルモンと合併し、タルモン=サンティレールとなった。

人口統計[編集]

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2008年 2013年
1046 1110 3347 3805 4409 5363 6764 7263

参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[2]、2004年以降INSEE[3][4]

史跡[編集]

脚注[編集]