ジョン・ポール・チェイス (ギャング)
ジョン・ポール・チェイス John Paul chase | |
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生誕 |
1901年12月26日 アメリカ合衆国・カリフォルニア州サンフランシスコ |
死没 |
1979年10月5日 カリフォルニア州サンタクララ郡パロアルト |
死因 | 病死(癌) |
職業 | ギャング |
罪名 | 銀行強盗、誘拐、殺人 |
犯罪者現況 | 死亡(72歳) |
配偶者 | サリー・バックマン |
有罪判決 | 終身刑 |
共犯 | ベビーフェイス・ネルソン |
逮捕日 | 1934年12月27日 |
収監場所 |
アルカトラズ刑務所(19年) レブンワース刑務所(12年) |
ジョン・ポール・チェイス(英:John Paul Chase, 1901年 - 1973年)は1930年代のアメリカ合衆国のギャング。ベビーフェイス・ネルソンの相棒として知られ、1930年代に世間を騒がせたデリンジャーギャングのメンバーにも加わった。
略歴[編集]
生い立ち[編集]
1901年、サンフランシスコで生まれた。7歳のときに父親が家を出ていき、小学校を5年生で退学してサンラフェルの牧場で働いた。18歳で母親が亡くなった[1]。
1921年に操車場の機械工として働き始めたが、海賊版の出版や密造酒と関わるようになり4年で解雇。その後ネバダ州リノでマフィアに雇われ、密造酒の輸送しているときにベビーフェイス・ネルソンと知り合った。意気投合した2人は自分たちを異母兄弟だと称し、密造酒を運ぶトラックの用心棒をしながらシカゴとカリフォルニアを何度も往復した。
ギャング時代[編集]
1933年10月23日、チェイスとネルソンはミネソタ州ブレイナードで初めての銀行強盗を行い3万2千ドル(現在の約65万ドル)を奪った。同じ時期にホーマー・ヴァン・メーターやトミー・キャロルを仲間にし、翌年ヴァン・メーターのムショ仲間であるジョン”レッド”・ハミルトンとジョン・デリンジャーが合流してデリンジャーギャングを結成した。チェイスもメンバーに加わったが積極的に関わることはなく、専ら武器弾薬の手配やギャング同士のメッセンジャーといった世話役の仕事をしていたようである。1934年4月にデリンジャーギャングがリトル・ボヘミア・ロッジで捜査局(後のFBI)に包囲されたときも一緒にいなかった。
1934年の6月から8月にかけて仲間のキャロル、デリンジャー、ヴァン・メーターが相次いで殺されると、チェイスは単独でサンフランシスコ、リノ、シカゴ、ニューヨークなどを転々としながら身を隠した[2]。
ネルソンの死[編集]
10月中旬、ネバダ州ミンデンでネルソンとネルソンの妻ヘレンと再会し、3人はシカゴに向かうことにした。しかし途中のウィスコンシン州で隠れ家を張り込んでいた捜査局に見つかり、イリノイ州バーリントン付近で追い詰められ銃撃戦になった。ネルソンは数発撃たれながらも捜査官のサミュエル・カウリーとハーマン・ホリスを殺害し、チェイスは捜査官の車を奪って重傷のネルソンとヘレンを乗せて逃走した。
翌日ネルソンの死体が発見された。捜査局は一緒にいた男をレッド・ハミルトンかアルヴィン・カーピスと推測したが、2日後の11月29日にシカゴでヘレンが逮捕され、彼女の自供によりジョン・ポール・チェイスの存在が明らかになった。捜査局は彼が土地勘のあるカリフォルニアに戻るだろうと推測し、かつての職場や仲間を当たってチェイスを見かけたら連絡するよう指示した。
逮捕[編集]
捜査局の予想は的中した。ネルソンが死んだ4日後、チェイスはシカゴからシアトルに車を運ぶアルバイトを見つけ「エルマー・ロックウッド」という従兄の名前を使って応募した。西海岸に戻ると6年前に勤めていたカリフォルニア州北部マウントシャスタの魚の孵化場で再び働き始めたが、1934年12月27日、同僚が通報し逮捕された。
シカゴで行われた裁判で、カウリー捜査官殺害の罪で終身刑を言い渡され、3月にアルカトラズ島刑務所に移された。刑務所で生活するうち神父から絵画を勧められたチェイスは、定期的に訪れる美術講師から油彩画を学び始めた。受刑者は屋外で自由に絵を描くことなど出来ないので、廊下や運動場から見たサンフランシスコ湾を思い出しながら独房で描いた[3]。彼の絵は次第に評判を得るようになり、サンフランシスコ市内の小さな画廊でも展示された。
15年が経ち神父の勧めで仮釈放の申請をするが、捜査局のJ・エドガー・フーヴァー長官は有能な部下2名を殺されたことへの個人的な恨みから全力で阻止した。さらに神父に監視を付けさせ「チェイスの仮釈放に関する一切の行動を妨害せよ」と部下に命令した。
1954年9月、カンザス州のレブンワース刑務所に移されたとき2度目の仮釈放申請をするが、フーヴァーは20年前のハーマン・ホリス捜査官殺害を引っ張り出して申請を無効にした。弁護士は直ちに「迅速な裁判を受ける被告人の権利」を侵害していると訴え起訴は取り消された。フーヴァーの努力も空しく1966年10月31日に仮釈放が認められた[4]。
ベイエリアの安宿に住みながらSt.ジョセフ高校とSt.パトリック神学校の用務員をしていたが、結腸癌を患い1973年10月5日にカリフォルニア州パロアルトで死亡した。71歳だった。葬儀の参列者に家族や親戚はおらず、少数の知人だけだった。
リノの銀行員失踪事件[編集]
1934年3月22日の夜、ネバダ州リノに住む銀行員ロイ・フリッシュ(Roy John Frisch,41)が映画館からの帰宅途中に行方不明になった[5]。当時フリッシュには、投資家から数千万ドルを騙し取った地元マフィアによる詐欺事件の重要証人として召喚状が出されていた[6]。
ネルソンとチェイスはかつてそのマフィアに雇われたことがあり、フリッシュが失踪する2日前にリノに到着し失踪した晩に街を去っていたことが判明したため彼らが第一容疑者となった[7]。リトル・ボヘミア・ロッジの事件の1ヶ月前のことである。
後に逮捕されたチェイスは捜査局に尋問され犯行を認めた。
- 「映画館から出てきたフリッシュを先回りして家の近くで待ち伏せした。彼が運転するビュイックの進路を塞ぎ、降りてきたフリッシュの頭をネルソンが拳銃で殴りつけ後部座席に押し込んだ。そのまま私が運転してヤーリントン(リノの南東80キロ)の辺りまで連れて行き、頭を撃って殺した。死体は近くの廃坑に捨てた」
またアルカトラズ刑務所にいるとき捜査官をネバダの廃坑に案内したことがあった。しかし遺体はなく、単に外の景色を見るためと結論付けられた[8]。
その後チェイスは事件について証言するため法廷に立たされたが「捜査局に自供を強要された」と発言を撤回している[9]。連邦捜査局は1943年に公式に死亡を認めたが、未だ真相は解明されない[10]。
脚注[編集]
出展[編集]
- ^ “名前。生年。死亡年。「Find a Grave」 メモリアル”. ja.findagrave.com. 2024年5月7日閲覧。
- ^ “John Paul Chase” (英語). Babyface nelson journal. 2024年5月7日閲覧。
- ^ “Alcatraz - Gallery 238-AZ”. www.notfrisco2.com. 2024年5月14日閲覧。
- ^ “John Paul Chase” (英語). Babyface nelson journal. 2024年5月8日閲覧。
- ^ Flowers, Ashley (2024年2月28日). “Roy Frisch - 6 of Spades, Nevada” (英語). The Deck. 2024年5月14日閲覧。
- ^ “Backyard Travels in Nevada & Beyond: The Mystery of Roy Frisch”. Backyard Travels in Nevada & Beyond (2008年3月31日). 2024年5月10日閲覧。
- ^ “Roy J. Frisch – The Charley Project” (英語). 2024年5月9日閲覧。
- ^ Traveler, Nevada (2007年7月1日). “NevadaGram #71 – Finding Roy Frisch | NevadaGram from the Nevada Travel Network” (英語). 2024年5月9日閲覧。
- ^ Honig-Bear, Sharon. “Frisch House - The disappearance of bank cashier Roy Frisch in 1934 is one of Reno's enduring unsolved mysteries.” (英語). Reno Historical. 2024年5月9日閲覧。
- ^ Flowers, Ashley (2024年2月28日). “Roy Frisch - 6 of Spades, Nevada” (英語). The Deck. 2024年5月9日閲覧。