クリスティアーネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト

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ポーランド王妃クリスティナ

クリスティアーネ・エーベルハルディネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイトドイツ語:Christiane Eberhardine von Brandenburg-Bayreuth, 1671年12月19日 - 1727年9月4日)は、ポーランド王アウグスト2世の王妃。ポーランド語名クリスティナ・エベルハルディナ・ホヘンゾレノーウナ(Krystyna Eberhardyna Hohenzollernówna)。

ブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストと妃ゾフィー・ルイーゼ(ヴュルテンベルクエーバーハルト3世の娘)の第1子としてプレツハen:Pretzsch, Wittenberg)で生まれた。彼女の名前は、父と母方の祖父の名にちなんだものである。

1693年、当時ザクセン選帝侯だったアウグストと結婚。この結婚は純粋に政略のためであり、結婚生活は非常に不幸であった。名うての女たらしであったアウグストは、結婚当初から愛妾がいた。1696年10月17日、クリスティアーネがドレスデンで一人息子アウグストを出産。そのわずか10日ほど後に、ゴスラーで、愛妾マリア・アウロラがアウグストの庶子ヘルマン・モーリッツ(のちのフランス元帥モーリス・ド・サックス)を生んだ。

夫アウグスト2世がポーランド王として即位するにあたり、プロテスタントからポーランドの国教カトリックに改宗したが、彼女は信仰を変えることを断固拒否したばかりか、夫の戴冠式に出席しなかった。彼女の所領で暮らす農夫たちは、クリスティアーネを『ザクセン人の柱』と呼んだ。

クリスティアーネはプレツハに持つ自身の私領か、トルガウのハルテンフェルス城で引きこもるように暮らした。彼女の姿が見られるのは、ドレスデンの祝祭が行われる時くらいだった。静かな生活の中で、彼女は文化と、親のない子供たちへの奉仕活動を行った。また、クリスティアーネは経済分野にも才能を見せ、プレツハにガラス工房を作らせた。

1727年、クリスティアーネは夫と長男とほぼ没交渉のまま、孤独な生涯を終えた。ポーランド王妃でありながら、彼女は地元プレツハの教会に埋葬され、夫と長男はどちらも葬儀に出席しなかった。

クリスティアーネの死を悼み、ヨハン・ゼバスティアン・バッハヨハン・クリストフ・ゴットシェートの書いた歌詞に作曲した。これが『侯妃よ、願わくばなお一条の光を』(哀悼頌歌、原題:Laß, Fürstin, laß noch einen Strahl )で、1727年10月15日、ライプツィヒのパウリナー教会で初めて演奏された。