エカテリーナ・マクシーモワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エカテリーナ・マクシーモワ, 1972年

エカテリーナ・マクシーモワ: Екатери́на Серге́евна Макси́мова: Ekaterina Sergeevna Maximova1939年2月1日 - 2009年4月28日)は、ロシアバレエダンサーである[1]。20世紀後半のロシア・バレエ界の代表的なダンサーの1人であり、舞踊技術に加えて演技力や表現力にも秀でていた[1]

生涯[編集]

1939年2月1日にモスクワで生まれた。父親は技師、母親はジャーナリストだった[2]。 モスクワ国立舞踊アカデミーにてI・ラファイロワ、エリザヴェータ・ゲルトから指導を受ける。 1957年にモスクワでの全連合バレエコンクールにて優勝し、同年にチャイコフスキー作曲のバレエ、くるみ割り人形バイノーネン版)で主役のマーシャとしてデビューした。 バレエ学校を卒業後、ボリショイ劇場に正式に入団を許可された。以降はガリーナ・ウラノワが劇場での教師となった。1958年から1988年までボリショイ・バレエに在籍して活躍した[3]

可憐な容姿に加えて高度な舞踊技巧と演技力を兼ね備え、「ボリショイのベビー・バレリーナ」と呼ばれて人気を集めた[1][3]。夫である名ダンサー、ウラジーミル・ワシーリエフとは、モスクワ国立舞踊アカデミー時代からの同級生で9歳から互いのことを知っている。二人のペアは世界最高峰のデュエットと称された。[3]

夫婦にとっての大きな悲劇は、子供を亡くしたことだった。医師が赤ちゃんの心臓が鼓動しなくなったと報告した後、マクシーモワはそれを信じなかった。 子供の喪失により、マクシーモワはさらに大きな情熱を持ってバレリーナとしての仕事に没頭するようになった。

ボリショイ劇場でのリハーサル中、脊髄損傷を受けた。医師達は舞台に戻ることはおろか、歩くこともできないと主張したが、後に舞台に復帰した。

ボリショイのプリマの地位を退いたあとも、ワシーリエフが演出・振付を手がけた 『アニュータ』 (1986年)のタイトルロールを踊って絶賛を得ている[1]。1998年からボリショイのバレエ・ミストレスを務め、S・ルンキナ、A・ニクーリナらを育てた[4]2009年4月28日、モスクワにて急逝[5]

小惑星(4145) Maximovaはマクシーモワの名前にちなんで命名された[6]

賞歴[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • ダンスマガジン編 『バレエ・ダンサー201』 新書館、2009年。ISBN 978-4-403-25099-6
  • ダンスマガジン編 『別冊ダンスマガジン バレエって、何?』 新書館、1993年。

外部リンク[編集]