ウィリアム・パーマー (犯罪者)

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ウィリアム・パーマー(William Palmer)
ウィリアム・パーマー(ジョセフ・シンプソン(Joseph Simpson)によるデッサン)
生誕 ウィリアム・パーマー
(1824-08-06) 1824年8月6日
イギリス、イングランド、スタッフォードシャー、ルージリー(Rugeley)[1]
死没 1856年6月14日(1856-06-14)(31歳)
イギリス、イングランド、スタッフォード刑務所[1]
死因 絞首による死刑
職業 内科医
罪名 謀殺
刑罰 死刑
配偶者 アン・パーマー(Ann Palmer)(1847年結婚 – 1854年死亡)[1]
子供 5 + 無数の非嫡出子
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ウィリアム・パーマーWilliam Palmer、1824年8月6日 - 1856年6月14日)は、19世紀イギリスの医者・殺人者である。ルージリーの毒殺者または毒殺の王子とも呼ばれ、19世紀で最も悪名高い殺人事件の犯人として有罪となった。チャールズ・ディケンズはパーマーを「今までオールド・ベイリー(中央刑事裁判所)に立った者の中で最大の悪党」と呼んだ[2]

パーマーは1855年に友人のジョン・クックを殺害した罪で有罪判決を受け、翌年、公開の場で絞首刑に処された。彼はクックをストリキニーネで毒殺、他にも兄弟や義母、4人の子供など数人を毒殺した疑いがある。パーマーは、妻と兄弟の死で生命保険金を受け取り、また裕福な母親から数千ポンドを騙し取って大金を手にしたが、そのすべてを競馬で失った。

前半生と毒殺ではないかと疑われるもの[編集]

ウィリアム・パーマーは、サラ・パーマーとジョセフ・パーマーの8子のうちの第6子として、スタッフォードシャー、ルージリーに生まれた。父は木挽きとして働いていたがウィリアムが12歳のときに死亡し、サラに遺産70,000ポンドを残した[1]

17歳のときに、パーマーはリバプールで薬剤師見習いとして働いていたが、金銭を盗んだという申し立てによって3か月後に解雇された[1]。彼はロンドンで医学を学び、1846年8月に内科医の資格を取得した[1]。パーマーはその年の後半にスタッフォードシャーに戻った後、リトル・ヘーウッド(Little Haywood)のパブリック・ハウス、ラム・アンド・フラッグ(Lamb and Flag)で配管工兼ガラス工のジョージ・アブリー(George Abley)に出会い、彼に飲みくらべをするように挑んだ。アブリーはそれに応じ、1時間後に家に運ばれ、その夜晩くにベッドで死亡した。何も証明されなかったが、しかし地元の人々は、パーマーがアブリーの魅力的な妻に興味を持っていたと述べた[1]

パーマーは故郷ルージリーに戻り医師として開業し、1847年10月7日に、アボッツ・ブロムリー(Abbots Bromley)、セント・ニコラス・チャーチ(St. Nicholas Church)で、アン・ソーントン(Ann Thornton)(1827年生まれ。母親が大佐ブルックスという人物の情婦であったためにブルックスとしても知られる)と結婚した[3][4][5]。彼の新しい義母(同名の)アン・ソーントンは、1834年に大佐ブルックスが自殺した後、8,000ポンドの財産を相続していた。義母ソーントンは、パーマーが滞在して2週間後、1849年1月18日に死亡した。彼女は彼に金銭を貸したことで知られていた。かなり年配のドクタ・バンフォードという人物は脳卒中の評決を記録した。パーマーは、自分と妻が得た遺産が期待より少額であったため失望した[1]

パーマーは競馬に興味を持つようになり、レースで出会ったレナード・ブレーデン(Leonard Bladen)から借金した[1]。ブレーデンは彼に600ポンドを貸したが、1850年5月10日にパーマーの家でもだえ死にした[1]。パーマーの妻は、ブレーデンが最近レースで多額の賞金を獲得したにもかかわらず、ほとんど金銭を身に付けないままに死亡したことに驚いた。彼の賭け金帳も行方不明であったために、彼がパーマーに金銭を貸したという証拠はなかった[1]。ブレーデンの死亡診断書は、パーマーを「死亡時に存在する」("present at the death")と記載し、死因を「股関節の負傷、5または6か月。骨盤内膿瘍」("injury of the hip joint, 5 or 6 months; abscess in the pelvis")と述べた[1]

パーマーの長男ウィリアム・ブルックス・パーマー(William Brookes Palmer)は、1848年末ころに生まれ[6]、1849年1月に洗礼を受けた[7]。彼は父親よりも長生きし、1926年4月29日に死亡した[8]。パーマー家の人々はさらに4子がいて、その全員が乳児期に死亡した。それぞれの子の死因は「けいれん」("convulsions")として表に記載された――

  • エリザベス・パーマー(Elizabeth Palmer)。 1851年1月6日に死亡。死亡時に生後約2か月半。
  • ヘンリー・パーマー(Henry Palmer)。1852年1月6日に死亡。生後約1か月。
  • フランク・パーマー(Frank Palmer)。 1852年12月19日に、生後わずか7時間後に死亡。
  • Dr. ウィリアム・パーマーの葉巻入れと葉巻、フランス製、1840年 - 1856年
    ジョン・パーマー(John Palmer)。 1854年1月27日に死亡。生後3日か4日。

乳児死亡は当時珍しくなかったために、これらの死亡は当初疑わしいとは見なされなかった。けれども1856年のパーマーの有罪判決の後に、彼が、より多くの扶養経費を避けるために、子供らに毒を投与したという推測があった[1]。1854年までに、パーマーは多額の借金を抱え、債権者らに返済するために母親の署名の偽造に頼っていた[1]。彼は妻にプリンス・オブ・ウェールズ保険会社(Prince of Wales Insurance Company)の生命保険をかけ、13,000ポンドの保険に対して保険料750ポンドを支払った[1]。1854年9月29日にアン・パーマーの、わずか27歳での死亡がそのあとに続いた[1]。3回目のコレラ大流行がイギリスを襲っていたために、彼女はコレラのために死亡したと考えられた。(全国で23,000人が死亡した[9][1]

パーマーはまだ多額の借金があったし、債権者2人は(彼らに彼は12,500ポンドと10,400ポンドを借りていた[10])母親に話しそれによって詐欺を暴露するぞと脅迫したために、兄弟ウォルター(Walter)に84,000ポンドの生命保険をかけようとした[1]。彼は、そのような金額で彼に保険をかけることをいとわない会社を見つけられなくて、代わりにプリンス・オブ・ウェールズ保険会社(Prince of Wales Insurance Company)に戻り、14,000ポンドの保険に対して保険料780ポンドを支払った[1]。ウォルターは飲んだくれであったし、すぐに兄弟に頼るようになった。兄弟はすぐに彼に一日数本のジンおよびブランデーをしつこくすすめた[1]。彼は1855年8月16日に死亡した[8]。しかし、保険会社は支払いを拒否し、代わりに調査のために検査員シンプソン(Simpson)とフィールド(Field)を派遣した。2人組はまた、パーマーがジョージ・ベート(George Bate)に10,000ポンド相当の生命保険をかけようとしていたことがわかった。彼は一時彼の雇用下にあった農夫であった[1]。彼らは、ベートが彼の保険契約の詳細について、誤った情報を与えられているかでなければ嘘をついていることがわかり、会社が兄弟の死亡について支払わないことをパーマーに知らせ、彼の死亡についてさらなる調査を勧めた[1]

このころ、パーマーはメイド エリザ・タルメ(Eliza Tharme)と不倫関係にあった[11]。1855年6月26日/27日に、タルメはパーマーの非嫡出子アルフレッド(Alfred)を出産したために、医師にたいする経済的負担が増した。パーマーの生活と借金がらせん形を描いて、彼は旧友ジョン・クックの謀殺をたくらんだ[1]

ジョン・クックの謀殺[編集]

ジョン・パーソンズ・クック(John Parsons Cook)は、12,000ポンドの財産を相続した病弱な青年で、パーマーの友人であった[1]。1855年11月に、2人組はシュルーズベリーハンディキャップ・ステークスに参加し、11月13日と15日の間にさまざまなウマに賭けた。クックは「ポールスター」("Polestar")に賭けて3,000ポンドを勝ち取った[1]。パーマーは代わりに「チキン」("the Chicken")に賭けて大敗けした。クックとパーマーは地元の飲酒施設レーブン(Raven)で祝賀パーティーを開いた[1]。すでに11月14日に、クックは、ジンが喉をやけどさせた、と不平をこぼしていた。パーマーは応えて大騒ぎした。そのとき彼は、困惑している見物人らに、クックのグラスに不適当なものは何もないことを納得させようとした[1]。その後、クックはひどく病気になり、友人2人ジョージ・ヘリング(George Herring)およびイシュマエル・フィッシャー(Ishmael Fisher)に、「くそいまいましいパーマーがおれに薬をもっていると思ってる」("I believe that damn Palmer has been dosing me")と語った[1]。11月15日に、パーマーとクックはルージリーに戻り、その時点でクックはタルボット・アームズ(Talbot Arms)に1部屋予約した。[要出典]

11月14日早くに、パーマーはプラット(Pratt)と称する債権者から手紙を1通受け取っていた。彼は、もしパーマー自身がすぐに全部支払おうとしないならば、母親を訪ね金銭を要求するぞと脅していた[1]。翌日、彼は或るウマに大きく賭け、負けた[1]

クックは一見病気から回復したように見え、11月17日にパーマーに会い一飲みして、すぐに再び病気になった[1]。この時点で、パーマーはクックの責任を引き受けた。クックの事務弁護士ジェレミア・スミス(Jeremiah Smith)は、ジンを1びん送った。パーマーはそれを送る前にそれを持っていた。女中エリザベス・ミルズ(Elizabeth Mills)はジンを一口飲んだ後、病気になった。クックは残りのジンを与えられ、彼の嘔吐はかつてないほど悪化した[1]。翌日に、パーマーはクックのかわりに賭け金を集め始め、1,200ポンドを持ち帰った[1]。その後、彼はドクタ・ソルトの診療所からストリキニーネを3粒購入し、グレーンを2つの錠剤に入れ、それからそれをクックに投与した[1]。11月21日、パーマーがアンモニアを2錠投与して間もない午前1時ころに、クックは、息がつまると叫びながら、もだえ死にした[1]

11月23日に、クックの継父ウィリアム・スティーブンス(William Stevens)が家族を代表するために到着した[1]。パーマーは、故人が賭け金帳を失っていたことを彼に知らせた。彼はさらに、ひとたび賭博者が死亡していればすべての賭けが取り消されるために、これは役に立たない、と主張した。彼はまたスティーブンスに、クックが未払いの請求書で4,000ポンドを持っていた、と話した[1]。スティーブンスは死因審問を要求したし、それは認められた[1]。一方、パーマーは80歳のドクタ・バンフォードから死亡診断書を取得したし、それは死因を「脳卒中」('apoplexy')と記載した[1]

クックの遺体の検死は11月26日にタルボット・アームズ(Talbot Arms)で行われ、医学生のチャールズ・デボンシャー(Charles Devonshire)と助手チャールズ・ニュートン(Charles Newton)によって行われ、ドクタ・ハーランド(Dr Harland)その他の多くの見物人によって監督された[1]。ニュートンは酔っていたし、パーマー自身がニュートンにぶつかり「安全な保管」('safe keeping')のために胃の内容物をジャー1つに入れて取り出して、検査を妨げた。それらジャーは毒物学者アルフレッド・スウェーン・テーラー(Alfred Swaine Taylor)に送られたし、彼はこういう質の悪いサンプルは役に立たないと不平をこぼしたし、11月29日に2回目の検死が行われた[1]。郵便局長サミュエル・チェシャー(Samuel Cheshire)は、パーマーのために検死官宛ての手紙複数を横取りした。チェシャーは後に郵便を妨害したとして訴追され、2年の刑を科された[1]。パーマーはまた、死亡の評決を自然因として与えるよう要求し、手紙に10ポンド紙幣を同封し、検死官自身宛てに手紙を書き送った[1]

テーラーは毒の証拠を見つけなかったが、しかしそれでも、クックが毒殺されたと確信していると述べた[1]。死因審問の陪審は12月15日に評決を下し、「故人はウィリアム・パーマーによって故意に彼に投与された毒のために死亡した」("Deceased died of poison wilfully administered to him by William Palmer")と述べた。当時、この評決は死因審問で合法的に受け継がれる可能性があった[1]

逮捕と公判[編集]

Judges
Lord Chief Justice John Campbell, 1st Baron Campbell
Mr Justice Cresswell
Mr Baron Alderson
Prosecution counsel Defence counsel
Attorney-General Alexander Cockburn
Edwin James QC
Mr Bodkin
Mr Welsby
John Walter Huddleston
Mr Serjeant Shee
William Robert Grove QC
Mr Gray
Edward Kenealy
ウィリアム・パーマーの公判に関する見開き特集 『Illustrated Times』1856年5月27日

パーマーは謀殺と偽造の容疑で逮捕され(或る債権者がパーマーが母親の署名を偽造していた疑いを警察に伝えた)、スタッフォード刑務所に拘留された。彼はハンガー・ストライキを続けるぞと脅したが、しかし刑務所長が彼に、そうすれば強制給餌につながると知らせたとき、取り下げた[1]

事件と彼の子供らの死亡の詳細な説明が地元の新聞によって印刷されたスタッフォードシャーでは公正な陪審が見つからないと感じられたために、ロンドンのオールド・ベーリーでの公判の開催を許可するために、議会法(Act of Parliament)(1856年の中央刑事裁判所法(Central Criminal Court Act 1856))が、可決された[1]。しかしながら、もうひとつの仮説は、パーマーはルージリーで人気のある人物であったし、スタッフォードシャーの陪審によって有罪とされることはなかったであろうというものである。この意味は、有罪判決を確実にするために、公判の場所が政治的な理由で移動されたということである。主席裁判官キャンベル――パーマーの裁判の上級裁判官――は、もしパーマーがスタッフォード巡回裁判所(Stafford Assizes Court)で公判に付されていたら彼は無罪であることが判明したであろう、と自伝で示唆した[12]

内務大臣はまた、アンとウォルター・パーマーの遺体を発掘し再検査するよう命じた。ウォルターはあまりにもひどく分解されていたが、ドクタ・テーラーはアンの身体の全器官でアンチモンを発見した[1]

パーマーの弁護は、上級弁護士ウィリアム・シー(William Shee)氏が率いた[13]。被告人側弁護は裁判官から不利な論評を受けた。なぜならシーが、職業上の行為のすべての規則と慣習に反して、自分はパーマーは無実であると個人的に信じている、と陪審に語ったためである[14]。サー・アリグザンダー・コックバーン第12代準男爵(Sir Alexander Cockburn, 12th Baronet)とジョン・ウォルター・ハドルストン(John Walter Huddleston)の訴追チームは、特に弁護側証人ジェレミア・スミスを破壊することにおいて、優れた法医学的精神を持っていたし、強力な擁護者らであると判った。スミスは、スミスの署名が書式にあるにもかかわらず、自分はパーマーが兄弟に生命保険をかけていることを知らない、と主張していた[1]。パーマーは、レーシングの比喩を通した評決の後、コックバーンの反対尋問に賞賛を表した。「それをしたのは、乗馬であった」("It was the riding that did it.")[15]

状況証拠が明るみに出た――

  • エリザベス・ミルズは、クックは死にかけているときパーマーを謀殺で非難した、と述べた。
  • チャールズ・ニュートンは、自分はパーマーがストリキニーネを購入しているのを見た、と陪審に語った。
  • 薬剤師ミスタ・ソルトは、パーマーがイヌ1匹を毒殺するために使用すると信じて、彼にストリキニーネを売ったことを認めた。彼はまた、自分が法律で義務付けられているように、ポイズンズ・ブックに販売を記録しなかったことを認めた。
  • 別の薬剤師チャールズ・ロバーツも、彼のポイズンズ・ブックに販売を覚え書きせずにパーマーにストリキニーネを売ったことを認めた。

パーマーの財政状況も説明され、金貸しのトマス・プラット(Thomas Pratt)は、自分は60%の利子で被告人に金銭を貸した、と裁判所に告げたし、銀行経営者ミスタ・ストーブリッジ(Mr Stawbridge)は、1855年11月3日の時点でパーマーの銀行残高が9ポンドであったことを確認した[1]

クックの死因は、双方が医学的証人らを連れてきて熱く論争された。ストリキニーネ中毒の人間の症例で実際に経験をした医療証人はほとんどいなかったし、21世紀の基準では、彼らの証言は貧弱と見なされていたであろう[1]

  • ドクタ・バンフォードは病気であったし、脳充血として彼の述べられた原因は、他の証人らによって却下された。検察は陪審に、彼は老年期に精神的に容疑者になっていた、と語った。
  • アルフレッド・スウェーン・テーラー(Alfred Swaine Taylor)を含む検察の証人らは、死因を「ストリキニーネによる破傷風」('tetanus due to strychnine')と述べた[1]
  • シーは、次のように述べて陪審に訴訟を要約した。もし訴追が正しいならば、「したがって、毒の検出にこれほど有利な状況はなかったが、それでも何も見つからなかった。」("Never therefore, were circumstances more favourable for detection of the poison and yet none was found")[1]。彼は15人の医療証人を召喚した。彼らは毒は胃の中で発見されるべきだったと述べた(その内容は死後の間に消えていた)[1]。検察は最後の言葉を述べたし、債務者監獄を避けるために必死に金銭を必要としている男としてのパーマーのイメージが描かれたし、彼は金銭のために友人を謀殺し、検死解剖を妨害することによって跡形をかくした[1]。陪審は1時間超、審議し、有罪の評決を返した[1]。ロード・キャンベルは死刑判決を言い渡し、パーマーからの反応はなかった[1]

死刑[編集]

ウィリアム・パーマーのデスマスクのリトグラフ

1856年6月14日に、約3万人がスタッフォード刑務所で、ジョージ・スミス(George Smith)の手によるパーマーの公開処刑を見た[16]。パーマーは絞首台に足を踏み入れたとき、トラップドアを見やってこのように叫んだと言われている、「本当に安全なのか?」("Are you sure it's safe?")[17]

刑務所長はパーマーに、最期の前に罪を告白するように頼んだし、 その結果、次のような言葉の応酬になった[1]――

「クックはストリキニーネで死ななかった」("Cook did not die from strychnine.")
「ああだこうだと言う時間ではない――クックを殺したのか、それとも殺さなかったのか?」("This is no time for quibbling – did you, or did you not, kill Cook?")
「主席裁判官はストリキニーネによる中毒で要約した」("The Lord Chief Justice summed up for poisoning by strychnine.")

パーマーは刑務所の礼拝堂の横、生石灰で満たされた墓に埋葬された。彼が絞首刑にされた後、彼の母親はこのようにコメントしたと言われている―― "They have hanged my saintly Billy."[18] 「わたしのの聖人のようなビリーが吊るされた」("They have hanged my saintly Billy.")。処刑直後、或る新聞はこのように報じた――

「パーマーを吊るしたロープはダンフリースシャー(Dumfriesshire)、ロックマーベン(Lochmaben)で1インチ5シリングで売られている、と言われている。売り手はダドリー出身の男であり、そこに絞首刑執行人スミスが住んでいる。「興味深い遺物」('interesting relic')は、準備ができている購入者らと会う、と言われている。ロープはイングランドでも広く売られている、と言われており、もちろん需要が増えるにつれて紡がれている」("It is stated that the rope that hanged Palmer is selling in Lockmaben, Dumfrieshire, at 5s. per inch.The seller is a man from Dudley, where Smith the hangman resides. The 'interesting relic,' it is said, meets with ready purchasers.The rope has also been selling extensively in England, it is said, and of course is being spun as the demand for it increases.")[19]

一部の学者は、証拠が彼を有罪にするのに十分であったはずはなく、裁判官の要約は偏向していた、と信じている[20]。1946年5月20日に、『The Sentinel』は、ロンドン南西部の元検死官の未亡人ミセス・E・スミスが見つけた、公判に含まれない最後の証拠を発表した。それはパーマーの筆跡で書かれたアヘンの処方箋であったし、その裏には薬剤師の、ストリキニーネとアヘンの10ペンス相当の請求書があった[1]

文化での言及[編集]

チャールズ・ディケンズの『荒涼館』(1853年)のインスペクター・バケット(Inspector Bucket)という架空の人物は、チャールズ・フレデリック・フィールド(Charles Frederick Field)に基づいていると言われている。彼は保険会社らのためにウォルター・パーマーの死亡を調査した警察官である[20]。ディケンズはかつてパーマーを「オールド・ベーリーにこれまで立った最大の悪役」("the greatest villain that ever stood in the Old Bailey")と呼ばわった[2]

パーマーの蝋人形は、1857年から1979年まで、マダム・タッソーの蝋細工博物館の恐怖の部屋に展示されていた[21]

アントニー・トロロープの小説『Phineas Redux』(1873年)では、謀殺でPhineas Finnを擁護している弁護士らがこの事件をほのめかしている。彼らは、パーマーが誤って有罪判決を受けて絞首刑にされたこと、自分らの依頼人が同様の運命を避けるために犯罪当夜の彼の動きについてあまりに詳細に説明することを避けるべきであることを暗示している[22]

シャーロック・ホームズの短編小説「まだらの紐の冒険」(1892年)で、ホームズは、明らかに悪役であるドクタ・グリムズビー・ロイロットについて論評している間、ドクタ・ワトソンに、医者が悪くなったとき彼は「犯罪者らのうち第1」("the first of criminals")であると言う。ホームズはそれから、パーマーとエドワード・ウィリアム・プリチャード(Edward William Pritchard)が「彼らの職業の先頭」("head of their profession")にいたという論評でこの点を説明する。どちらも良い医者とは見なされなかったし、プリチャードはグラスゴーの医療友愛会によっていんちきのようなものと見なされていたために、ホームズが意味する「職業」("profession")は謀殺の職業であった。

クックの検死でパーマーを巻き込んでいる事件は、ドロシー・L・セイヤーズの1928年の殺人ミステリー小説『ベローナ・クラブの不愉快な事件』で言及されている。この犠牲者の死後解剖をしている医師は、胃の内容物をジャーに移すとき言う――「...気をつけて! もう終わりだ。ハッ! ハッ! それは  近いものだった。パーマーを思い出す――そしてクックの胃――いつもとても面白い話だと思う、ハッ! ハッ!..。」("...Look out! You'll have it over. Ha! ha! That was a near thing. Reminds me of Palmer, you know - and Cook's stomach - always think that a very funny story, ha! ha!...")

アルフレッド・ヒッチコックの1941年の映画『断崖』は、ブランデーの飲み過ぎで犠牲者の1人を殺した悪名高い謀殺犯、「リチャード・パーマー」("Richard Palmer")の記憶を呼び起こす。リナ(ジョーン・フォンテイン)と彼女の村に住む殺人ミステリーの作者(オリオールリー)の間のシーンでは、相互の友人の死亡は、「リチャード」("Richard")パーマーによるこの現実の謀殺の前例があると言われている。リナの夫(ケーリー・グラント)は、謀殺のテクニックを研究するために書籍、『The Trial of Richard Palmer』を借りた疑いがある。

ウィリアム・パーマーは、CBSラジオ・シリーズ『Crime Classics』の1953年10月7日のエピソード「"The Hangman and William Palmer, Who Won?"」で、俳優ジェー・ノベロ(Jay Novello)によって演じられた。

ロバート・グレーブス(Robert Graves)の最後の歴史小説『They Hanged My Saintly Billy』(1957年)は、パーマーを擁護し、グレイブスのトレード・マーク「傷ついた、またはそしられた評判の再構築」("reconstruction of a damaged or maligned reputation")(p.xxv)を提供している[23]

映画『The Life and Crimes of William Palmer』は1998年に公開され、キース・アレン(Keith Allen)がパーマー役を演じた。

The salutation "What's your poison?" is thought to be a reference to the events.[20] 「あなたの毒は何ですか?」("What's your poison?")というあいさつは、これら出来事への言及であると考えられている[20]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg Hayhurst, Alan (2008). Staffordshire MURDERS. Gloucestershire: The History Press. pp. 15–36. ISBN 978-0-7509-4706-0 
  2. ^ a b Dickens, Charles (1856). “The Demeanor of Murderers”. Household Words. Bradbury & Evans. https://archive.org/stream/oldlampsfornewon00dick#page/268/mode/2up 2014年7月2日閲覧。 
  3. ^ Knott (1912) p. 14
  4. ^ Robert Graves, "They hanged my saintly Billy: the life and death of Dr William Palmer", Doubleday, 1957, p.86
  5. ^ Ian A. Burney, "Poison, detection, and the Victorian imagination", Encounters, Manchester University Press, 2006, ISBN 0-7190-7376-6, p. 116
  6. ^ “Palmer, William Brookes/ Lichfield vol. 17, 74” in General Index to Births in England and Wales (December quarter, 1848)
  7. ^ William Brookes Palmer in the England & Wales Christening Index, 1530-1980, ancestry.co.uk, accessed 17 November 2020 (Paid subscription required要購読契約)
  8. ^ a b Key Dates”. William Palmer. 2016年11月1日閲覧。
  9. ^ “Cholera's seven pandemics”. (2008年12月2日). http://www.cbc.ca/health/story/2008/05/09/f-cholera-outbreaks.html 2008年12月11日閲覧。 
  10. ^ 'Trial' (1856) pp. 180–181
  11. ^ Irrefutable Evidence: A History of Forensic Science ISBN 978-1-566-63803-6 pp. 190-191
  12. ^ Lewis, Dave (2003年5月1日). “The 'Palmer Act' allows trial to be in London”. William Palmer: The infamous Rugely poisoner. 2018年8月21日閲覧。 “However another version is that he was very popular and would not have been found guilty had he been tried locally. Lord Justice Campbell who was the senior judge at Palmer’s trial suggested in his autobiography that, had Palmer been tried at Stafford Assizes, he would have been found not guilty. This contradicts the stories in the press that the trial was switched to London because in Staffordshire people were so biased against Palmer that he would have automatically been found guilty.”
  13. ^ Barker (2004)
  14. ^ Knott (1912) p.267
  15. ^ Knott (1912) p.3
  16. ^ Wade, Stephen (2009). Britain's Most Notorious Hangmen. Wharncliffe Local History. pp. 92–94. ISBN 978-1-84563-082-9 
  17. ^ Witticisms Of 9 Condemned Criminals Archived 14 March 2008 at the Wayback Machine. at Canongate Press
  18. ^ Bell, David (2005). “9”. Staffordshire Tales of Murder & Mystery. Murder & Mystery. Countryside Books. pp. 86. ISBN 978-1-85306-922-2 
  19. ^ “Arrival of the Niagara”. Morning Journal. (1856年7月16日). https://news.google.com/newspapers?nid=82&dat=18560716&id=awszAAAAIBAJ&pg=6886,1548937 2016年8月19日閲覧。 
  20. ^ a b c d Davenport-Hines (2004)
  21. ^ Leavesley, Jim (2010). Not Your Ordinary Doctor. Crows Nest, NSW, Australia: Allen & Unwin. pp. 294. ISBN 9781742373300 
  22. ^ Phineas Redux Chapter 60 "Two days before the trial"
  23. ^ https://www.amazon.co.uk/Antigua-Penny-Puce-Saintly-programme/dp/1857545842

文献[編集]

外部リンク[編集]