アンナ・マリア・ヴァーサ

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アンナ・マリア・ヴァーサ
Anna Maria Vasa

出生 (1545-06-19) 1545年6月19日
 スウェーデンストックホルム
死去 (1610-03-20) 1610年3月20日(64歳没)
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プファルツ=フェルデンツ公領、ハシュバッハ・アム・レミギウスベルク、聖レミギウス教会
配偶者 プファルツ=フェルデンツ公ゲオルク・ヨハン1世
子女 一覧参照
家名 ヴァーサ家
父親 スウェーデングスタフ・ヴァーサ
母親 マルガレータ・レイヨンフーヴッド
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アンナ・マリア・グスタフスドッテル・ヴァーサ・アヴ・スヴェーリエAnna Maria Gustavsdotter Vasa av Sverige, 1545年6月19日 - 1610年3月20日)は、スウェーデングスタフ・ヴァーサとその2番目の妃マルガレータ・レイヨンフーヴッドの間の三女。ドイツのプファルツ=フェルデンツ公ゲオルク・ヨハン1世と結婚した。フェルデンツ公領の摂政(在任1592年 - 1598年)を務めた。

生涯[編集]

1562年12月20日にプファルツ=フェルデンツ公家に嫁いだ。家庭生活は円満で、アンナ・マリアは夫ゲオルク・ヨハン1世の助言者となり、夫の無謀な野心を抑えようと努めた。アンナ・マリアはまた自分の兄弟とドイツ諸侯の娘との縁組を熱心に勧め、1579年には末弟のカール(後のカール9世)とプファルツ=ジンメルン家の公女アンナ・マリアを結婚させている。

1592年に未亡人になると、アンナ・マリアは夫の遺した30万フローリンもの莫大な借財を返済するために奔走することになった。また彼女は、夫が遺言で息子たちに遺産を分割すると言い残したために起きた、領土の相続をめぐる息子たちの争いをも諫めねばならなかった。彼女は摂政として1592年から1598年まで統一状態のフェルデンツ公領を治めた。その後、長男のゲオルク・グスタフがフェルデンツとラウテレッケンを相続分として確保し、下の息子たちはそれ以外の地域を与えられた。

子女[編集]

夫のゲオルク・ヨハン1世との間に11人の子女があった。

  • ゲオルク・グスタフ(1564年 - 1634年) - プファルツ=フェルデンツ公
  • アンナ・マルガレーテ(1565年)
  • アンナ・マルガレーテ(1571年 - 1621年) - 1589年、プファルツ=ジンメルン=シュポンハイム公ライヒャルトと結婚
  • ウルスラ(1572年 - 1635年) - 1585年、ヴュルテンベルク公ルートヴィヒと結婚
  • ヨハンナ・エリーザベト(1573年 - 1601年)
  • ヨハン・アウグスト(1575年 - 1611年) - プファルツ=リュッツェルシュタイン公、プファルツ選帝侯フリードリヒ3世娘アンナ・エリーザベトと結婚
  • ルートヴィヒ・フィリップ(1577年 - 1601年) - プファルツ=グッテンベルク公
  • マリー・アンナ(1579年)
  • カタリーナ(1582年 - 1595年)
  • ゲオルク・ヨハン2世(1586年 - 1654年) - プファルツ=リュッツェルシュタイン公、プファルツ=グッテンベルク公

参考文献[編集]

  • Herman Lindqvist : Historien om Sverige. Gustav Vasa och hans söner och döttrar (The History of Sweden. Gustav Vasa and his sons and daughters) (In Swedish)
  • Kungliga släktband - Ulf Sundberg

外部リンク[編集]