アルマン・アルベール・ラトゥー

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アルマン・アルベール・ラトゥー(Armand Albert Rateau, 1882年1月24日 - 1938年2月24日[1])は、フランス家具職人インテリアデザイナー

2006年発刊のグローブ装飾芸術百科辞典(Grove Encyclopedia )には[2]"上流社会向けの高級家具を製作した最も著名な人物"、とあり、アーキテクチャル・ダイジェスト(Architectural Digest)[3]においては”1920年代の最もすばらしいインテリアデザイナー”と記述している。業績には自身製作の銅製の家具とジャンヌ・ランバンのアパルトマンを装飾したことが挙げられる。

『図書室のアルマン・アルベール・ラトゥー』、ジャン・デュナン作、1939年

生涯[編集]

1882年生まれ。エコール・ブール国立工芸学校英語版で腕を磨いた。1914年に友人と修学旅行でナポリポンペイを訪れそこで博物館や古代遺跡を訪れた。

有名デザイナーのジョルジュ・エンシェル英語版[4]の下で仕事を始め、彼の古典様式を学んだ。 ラトゥーが23歳の時、アラヴォワーヌ社の芸術責任者を務めた。そこはパリで最も注目された装飾を手掛けていた会社であった。1919年、Hoentschel と Alavoineの経験から学んだ、古典的様式美に根ざした製作で評判を得て、そして彼は自分の仕事を始めた。

最初の重要な依頼はアメリカからだった。その仕事とは銀行家ブルーメンタール夫妻(ジョージ・ブルーメンタール英語版フローレンス・メイヤー・ブルーメンタール英語版)の邸宅にプールを備え付ける仕事であった。そこで彼は1914年の旅で見たものをテーマにラトゥーと言えば銅製装飾品、と連想させる仕事に取りかかる。 1920年、フランス人クチュリエ、ジャンヌ・ランバンのアパルトマンの再設計に携わり、そのすぐ後に第17代アルバ公爵夫人マリア・デル・ロサリオスペイン語版からの依頼に答えた。

こうしてラトゥーはアール・デコとその装飾ブームの中心人物となった。彼の主題はエジプト調のデザインを起因に置いていた。 ランバンとは仕事を通じて親友となり、ランバンのスポーツ関連の仕事や、ランバンの香水アルページュ英語版を手掛けたりもした。

遺構[編集]

アパルトマンの婦人室の一角、
屏風、1921-1922年作、ラッカー

パリのrue Barbet-de-Jouy通り沿いにあるランバンのアパルトマンの1928年に作られた装飾品は Prince Louis de Polignacによって1960年にパリ装飾芸術美術館(en:Musee des Arts Decoratifs, Paris)に寄贈された。[5]

受賞[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b Joanna Banham、『Encyclopedia of Interior Design』、1997
  2. ^ 1996年に纏められた芸術分野の百科事典。1998年にオックスフォード大学が修正し現在はen:Oxford Art Onlineとして知られる。
  3. ^ en:Architectural Digest1920年創刊のアメリカの月刊誌。題からも現れているように建築ではなく一般のインテリアについての内容が書かれている。
  4. ^ 建築家でもあり陶芸コレクターでもある。
  5. ^ 英語版要訳

参考文献[編集]

関連項目[編集]