高瀬忠敦
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高瀬 忠敦(たかせ ただあつ、寛文8年(1668年)- 寛延2年6月15日(1749年7月28日))は、江戸時代中期に紀州藩に仕えた医師・朱子学者。字は喜朴(きぼく・喜樸/希樸)。号は学山(がくざん)など。通称は忠兵衛・作右衞門。
人物
[編集]紀州藩藩医の子に生まれ、初めは医師として藩に仕えたが、後に江戸で朱子学を学んだ。藩主徳川吉宗に信任されて正徳3年(1713年)に奥詰めを命じられて年々10両が与えられた。吉宗が征夷大将軍になると、新しく藩主になった従兄弟の徳川宗直からも重用され、享保14年(1729年)に40石、元文5年(1740年)に50石に加増され、儒者としての待遇を受けた。荻生徂徠や大岡忠相とも親交が厚かった。
『唐六典』や『明律』(明の律令法)に精通し、『大明律例訳義』13巻を初め、『唐律解』9巻・『唐律諺解』16巻・『明律訣義』14巻・『明律詳解』31巻など中国法制に関する著作を多数著した。また、『論語鈔説』10巻・『孟子鈔説』7巻・『医学正伝標註』4巻など儒教・医学に関する著書も著している。他に『学山文集』10巻などがある。
参考文献
[編集]- 安藤精一「高瀬学山」(『国史大辞典 9』(吉川弘文館、1988年) ISBN 978-4-642-00509-8)