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鐘匱制

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鐘匱の制(かねひつのせい)とは、大化の改新直後の645年大化元年)に定められた訴訟制度。訴人に伴造など尊長を経由して匱(ひつ)のなかに(訴状)を入れさせ、政府の処置が不当なときには鐘(かね)を衝かせた。

史料[編集]

是日設鐘・匱於朝而詔曰、若憂訴之人、有伴造者、其伴造先勘当而奏。有尊長者、其尊長先勘当而奏。若其伴造・尊長、不訴収牒納置、以其罪罪之。其収牒者、味旦執牒奏於内裏。朕題年月使示群卿。或懈怠不理、或阿党有曲、訴者可以撞一レ鐘。由是懸鐘置匱於朝。天下之民咸知朕意
大化元年八月、『日本書紀』巻二十五 孝徳天皇紀
所以懸鐘匱、拝収表人、使憂諫人納表于匱。詔表人、毎旦奏請、朕得奏請、仍示群卿、便使勘当。庶無留滞。如群卿等、或懈怠不懃、或阿党比周、朕復不諫、憂訴之人、当可鐘。詔已如此。
大化二年二月、『日本書紀』巻二十五 孝徳天皇紀

事例[編集]

  • 646年(大化2年)2月15日(戊申)条には、地方から租税等を運んで都に上った人々をそのまま中央に留めさせて不法に雑役にあたらせていることの訴えが匱に入れられ、政府の意にも反することであったとして実際に停止されている。

史料批判[編集]

645年(大化元年)8月と646年(大化2年)2月にみられる記述は、細部の字句が異なるが同じ内容として扱われている。これは、なんらかの原詔が存在して別々の経路から正格漢文に翻訳された結果生じたと考えられる。しかし、原詔が日本書紀編纂の時点でも参照されていたかの点については一致をみず、たとえば関晃は、日本書紀の原史料は原詔の完形を伝えていたわけではないとしている。[1]

背景[編集]

君主が直接に民意を聞くという制度は、儒教的な政治思想に基づくとされている。[2] 訴状は必ず伴造や尊長を経由するものであって、有力豪族の権威を排除するものではなかった。[1]

脚註[編集]

  1. ^ a b 関晃 (1967). “鐘匱の制と男女の法”. 歴史 (東北史学会) 34 (3): 1―13. 
  2. ^ 坂本, 太郎「3篇 改新の経過 3章 実施及び補遺」『大化改新の研究』至文堂、1941年。 

関連項目[編集]