金谷経氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
金谷経氏
時代 南北朝時代
生誕 不明
死没 観応2年/正平6年9月7日1351年9月27日
官位 治部少輔[1]
氏族 金谷氏
父母 父:金谷重氏[2]
テンプレートを表示

金谷 経氏(かなや つねうじ)は、南北朝時代武将

経歴・人物[編集]

金谷氏上野国新田郡金谷発祥の新田義貞の一族。南朝方に属し、播磨丹生山城を拠点とした。のち同族の脇屋義助に従い伊予に赴く[1]観応2年/正平6年(1351年9月7日山城石清水八幡宮を攻めるが敗れて自刃した[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『金谷経氏』 - コトバンク
  2. ^ 太田稲主 著『上野国新田郡史』太田美屋、p.109(1929)