肝付兼篤
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄5年(1562年) |
死没 | 慶長14年6月29日(1609年7月30日) |
改名 | 小五郎(幼名)→兼仍→兼篤 |
別名 | 通称:狩之介、伴兵衛 |
戒名 | 傑心大英居士 |
官位 | 越前守 |
主君 | 島津義久→忠恒 |
藩 | 薩摩喜入領主 |
氏族 | 喜入肝付氏 |
父母 | 父:肝付兼盛、母:菱刈重根娘 |
兄弟 | 兼寛、兼篤、新納忠光室 |
妻 | 岩切善信娘 |
子 | 兼武 |
肝付 兼篤(きもつき かねあつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。喜入肝付氏初代当主。
出自
[編集]喜入肝付氏は肝付氏12代・肝付兼忠の三男・兼光を祖とする庶流。
略歴
[編集]永禄5年(1562年)、肝付兼盛の子として生まれる。天正18年(1590年)兄・兼寛が嗣子のないまま没し、肝付家の家督は、島津家重臣伊集院忠棟の強い求めで、忠棟の三男・兼三が相続することとなる。
慶長4年(1599年)当主兼三が、実父忠棟の誅殺事件により、肝付家を離れたことで、親族間の相談により、先々代兼盛の実子・兼篤を相続者と決定し、主君・島津義久の許しと義弘、忠恒の同意を得て家督相続した。同年忠棟の嫡男・忠真が庄内の乱を起すと、義弘、忠恒の命で討伐の軍に加わる。
慶長10年(1605年)、家中で従兄弟兼秋、兼堯兄弟(叔父肝付兼有の子)による肝付家の家督相続を狙った陰謀が露見し、それを収める。
慶長14年(1609年)主君・家久の琉球出兵に従い出陣する。琉球からの帰国後、病により同年6月29日没。享年48。
参考文献
[編集]- 「喜入村郷土史」
- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13) (鹿児島県史料刊行委員会)