羅璧
羅 璧(ら へき、生没年不詳)は、大元ウルスに仕えた漢人の一人。字は仲玉。大元ウルスの初期に江南と大都を結ぶ海運の発達に寄与したことで知られる[1]。
概要
[編集]羅璧の一族は鎮江の出身で、羅璧の父の羅大義は南宋に仕える将であった。羅璧は13歳にして孤児となったが、朱禩孫の配下となって四川方面に赴き、武翼大夫・利州西路馬歩軍副総管の地位を得た。朱禩孫が荊湖の江陵に移るとこれに従ったが、そこで大元ウルスの将軍のエリク・カヤの攻撃を受けた。羅璧は朱禩孫とともにモンゴル軍に降って宣武将軍・管軍千戸の地位を受け、アジュ率いる軍団に属することになった。至元15年(1278年)からは張弘範の軍団に加わって広南に進み、明威将軍・管軍総管に昇格となって金山に鎮撫した。4年間海盗の討伐に従事した後、上海に移って60艘の船を2カ月の内に建造した[2]。
至元12年(1275年)から穀倉地帯の江南(マンジ)から糧食の運搬が始まったが、河川での運搬には限界があった。そこで、至元19年(1282年)に丞相のバヤンの提言によって江南から海路によって糧食を運び、直沽の港を経て京城(大都)に届けるという事業が始まった。この事業のために3カ運糧万戸が呉県に設置され、羅璧と崇明島の海商の朱清・張瑄が統轄を命じられた。羅璧ら3名は60日で平底船60隻を建造し、4万6千石余りを積載して同年8月に劉家港に集結した[3]。劉家港を出航した船団は通州海門県を通り、外洋に出ると小島を縫いながら北上し翌年3月には直沽に至った[4]。運搬には8カ月がかかったとはいえ、大量の食糧を一度に運搬することに成功した羅璧らは高く評価され、羅璧は懐遠大将軍・管軍万戸兼管海道運糧に任じられた[5]。大元ウルスの海運事業が至元19年-20年(1282年-1283年)の羅璧・朱清・張瑄らによる食糧輸送に始まることは、『元史』巻93志42食貨志1海運条や「大元海運記」上に特筆されている[6]。
朱清・張瑄と協力して海運路の開拓に成功した羅璧であったが、海上での活動には長けていても造船事業・水夫の確保などの面では海商あがりの朱清・張瑄に劣り、至元23年(1286年)には万戸府が3から2に縮小され海道運糧事業は朱清・張瑄によって独占されることになった[7]。至元24年(1287年)にナヤンの乱が起こると、羅璧は海運によって遼東地方の中心地の遼陽に入り、錦州・広寧方面の補給を行ったため、この功績により昭勇大将軍とされた。至元25年(1288年)、直沽に至る水路の整備を行い、昭毅大将軍・同知淮西道宣慰司事に昇格となった。その後、両淮地方の荒地を貧民に開墾させることを上請して許可され、実際に収穫量を増やすことに成功したため、更に鎮国上将軍・海北海南道宣慰使都元帥に昇格した[8]。
大徳3年(1299年)、饒州路総管、ついで広東道宣慰使都元帥の地位を得た。広東方面には未だ大元ウルスの支配を受け容れない酋長がいたため、羅璧が彼等に官位を与え、帰服させたという。晩年には両淮地方の屯田を命じられたが、病により鎮江に帰り、そこで66歳にして亡くなった。息子には羅坤載がいた[9]。
脚注
[編集]- ^ 藤野2012,57頁
- ^ 『元史』巻166列伝53羅璧伝,「羅璧字仲玉、鎮江人。父大義、為宋将。璧年十三而孤、長従朱禩孫入蜀、累官武翼大夫・利州西路馬歩軍副総管。禩孫移荊湖、璧従之、至江陵。右丞阿里海牙領軍下江陵、璧従禩孫降、授宣武将軍・管軍千戸、隷丞相阿朮麾下。招収淮軍、討歙寇有功、領本州安撫事。至元十五年、従元帥張弘範定広南、賜金符、陞明威将軍・管軍総管、鎮金山。居四年、海盗屏絶。徙鎮上海、督造海舟六十艘、両月而畢」
- ^ 藤野2012,59頁
- ^ 藤野2012,59-60頁
- ^ 『元史』巻166列伝53羅璧伝,「至元十二年、始運江南糧、而河運弗便。十九年、用丞相伯顔言、初通海道漕運、抵直沽以達京城、立運糧万戸三、而以璧与朱清・張瑄為之。乃首部漕舟、由海洋抵楊村、不数十日入京師、賜金虎符、進懐遠大将軍・管軍万戸、兼管海道運糧」
- ^ 『元史』巻93志42食貨志1,「海運。元都于燕、去江南極遠、而百司庶府之繁、衛士編民之衆、無不仰給於江南。自丞相伯顔献海運之言、而江南之糧分為春夏二運。蓋至于京師者一歳多至三百万餘石、民無輓輸之労、国有儲蓄之富、豈非一代之良法歟。初、伯顔平江南時、嘗命張瑄・朱清等、以宋庫蔵図籍、自崇明州従海道載入京師。而運糧則自浙西渉江入淮、由黄河逆水至中灤旱站、陸運至淇門、入御河、以達于京。後又開済州泗河、自淮至新開河、由大清河至利津、河入海、因海口沙壅、又従東阿旱站運至臨清、入御河。又開膠・萊河道通海、労費不貲、卒無成効。至元十九年、伯顔追憶海道載宋図籍之事、以為海運可行、於是請于朝廷、命上海総管羅璧・朱清・張瑄等、造平底海船六十艘、運糧四万六千餘石、従海道至京師。然創行海洋、沿山求嶴、風信失時、明年始至直沽。時朝廷未知其利、是年十二月立京畿・江淮都漕運司二、仍各置分司、以督綱運。毎歳令江淮漕運司運糧至中灤、京畿漕運司自中灤運至大都。二十年、又用王積翁議、令阿八赤等広開新河。然新河候潮以入、船多損壊、民亦苦之。而忙兀䚟言海運之舟悉皆至焉。於是罷新開河、頗事海運、立万戸府二、以朱清為中万戸、張瑄為千戸、忙兀䚟為万戸府達魯花赤。未幾、又分新河軍士水手及船、於揚州・平灤両処運糧、命三省造船二千艘於済州河運糧、猶未専於海道也」
- ^ 藤野2012,60-61頁
- ^ 『元史』巻166列伝53羅璧伝,「二十四年、乃顔叛、璧復以漕舟至遼陽、浮海抵錦州小凌河、至広寧十寨、諸軍頼以済、加昭勇大将軍。二十五年、督漕至直沽倉、潞河決、水溢、幾及倉、璧樹柵、率所部畚土築堤捍之。陞昭毅大将軍・同知淮西道宣慰司事。請両淮荒閑之田給貧民耕墾、三年而後量収其入、従之。歳得粟数十万斛、陞鎮国上将軍・海北海南道宣慰使都元帥」
- ^ 『元史』巻166列伝53羅璧伝,「大徳三年、除饒州路総管、改広東道宣慰使都元帥。山海獠夷不沾王化、負固反側、乃誘致諸洞蛮夷酋長、假以官位、暁以禍福、由是咸率衆以帰。除都水監、改正奉大夫。通州復多水患、鑿二渠以分水勢。又浚阜通河而広之、歳増漕六十餘万石。奉命括両淮屯田、得疾、帰鎮江而卒、年六十六。子坤載」