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練子寧

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練 子寧(れん しねい、1359年 - 1402年)は、明代官僚。名は安、は子寧で、字をもって通称された。は松月居士。本貫臨江軍新淦県

生涯

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鎮安通判の練伯尚の子として生まれた。1385年洪武18年)、進士に及第し、榜眼となった。翰林院修撰に任じられた。母が死去したため、辞職して古礼にのっとって喪に服した。喪が明けると、官に復帰し、歴任して工部侍郎となった。1399年建文元年)、吏部左侍郎に転じた。ほどなく御史大夫に任じられた。靖難の変が起こると、李景隆が北征したがたびたび燕軍に敗れて、召還された。子寧は朝廷でその罪を数え、李景隆を処刑するよう請願したが、建文帝に聞き入れられなかった。

1402年(建文4年)4月、建文帝の命を受けて、兵の徴集にあたった[1]。6月、南京が陥落すると、子寧は捕縛された。燕王朱棣と面会して不遜の語があったため、磔刑を受けた。享年は44。その家族は皆殺しにされ、姻戚は辺境に流されて兵役につかされた。弘治年間に王佐が子寧の遺文を『金川玉屑集』5巻[2]にまとめた。甥に練大享(練達)がいた。

脚注

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  1. ^ 明史』恭閔帝紀
  2. ^ 『明史』芸文志四

参考文献

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  • 『明史』巻141 列伝第29