米山博久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

米山 博久(よねやま ひろひさ、1915年5月15日 - 1985年6月9日)は、日本の鍼灸師。大阪府鍼灸師会副会長。

経歴[編集]

1915年長野県下伊那郡山本村(現・飯田市)に生まれる[1]。高等小学校卒業後、1935年に鍼灸師資格を取得し[1]1936年に東方医学会(大阪)に所属[1]。1946年に刀根山鍼灸医学会を設立し[1]、1950年から1971年まで日本鍼灸師会代議員を務めた[1]。1958年には明治鍼灸専門学校の講師[1]。1960年から1971年、1974年から1975年の4回に渡って、大阪府はりきゅう師試験委員を歴任[1]。1963年から1975年まで大阪府鍼灸師会理事[1]。このほか、1960年に結成された日本針灸皮電研究会(現・日本臨床鍼灸懇話会)理事、大阪府鍼灸師会副会長、大阪鍼灸専門学校(現・森ノ宮医療学園専門学校)校長などを務めた。

1963年に中国の「裸足の医者」に啓蒙されて私塾である土法の会を主宰した。石川太刀雄を筆頭に集まり、塩沢幸吉木下晴都倉島宗二代田文誌三木健次森秀太郎清水千里らと共に内臓体壁反射学説を学んだ。

鍼術は自律神経反射・内蔵体壁反射で説明が付くとして、経絡の概念にとらわれず、一貫して現代医学の手法で病態を把握した[1]。米山の経絡否定論は論争を呼び、経絡を客観的に実証しようとするグループと、経絡説によらずに鍼灸医学を確立しようとするグループの誕生を促した[1]。米山の経絡否定論は言葉こそ過激であったが、科学的な研究方法論の必要性を唱えたものと評される[1]

著書[編集]

  • 「小児鍼法」
  • 「痛みの鍼灸治療」
  • 「新しい鍼灸院」
  • 「現代日本の鍼灸」
  • 『現代針灸写真シリーズ 2 呼吸器疾患,小児疾患』鍬谷書店、1971年。ISBN 978-4752910169 
  • 『私の鍼灸治療学』医道の日本社、1985年。ISBN 978-4752910473 

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 山田 鑑照, 尾崎 朋文, 坂口 俊二, 森川 和宥 (2002). “「経絡論争期の経絡・経穴についての基礎研究」”. 全日本鍼灸学会雑誌 52 (5): 529–552. doi:10.3777/jjsam.52.529. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1981/52/5/52_5_529/_article/-char/ja/. 

参考文献[編集]