立花寿俶
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和元年3月21日(1801年5月3日) |
死没 | 天保2年7月29日(1831年9月5日) |
別名 | 幼名:淳次郎、通称:右京、号:蘭斎、鶴舞堂、洗心庵、居業楼主人 |
戒名 | 智徳院殿性海洞然大居士 |
墓所 | 福厳寺 (柳川市) |
官位 | なし |
主君 | 立花鑑寿→鑑賢→鑑広 |
藩 | 筑後国柳河藩一門家 |
氏族 | 立花氏 |
父母 | 父:立花鑑寿 |
兄弟 | 立花鑑賢の正室 |
妻 | 立花通厚三女(正覚院) |
子 | 立花鑑寛 |
立花 寿俶(たちばな ひさよし)は、江戸時代の後期の柳河藩士。柳河藩において、江戸幕府の御三卿相当とされる、立花一門家の1つである立花右京家の祖である。幼名は淳次郎、通称は右京、号は蘭斎、鶴舞堂、洗心庵、居業楼主人。父は藩主立花鑑寿。養兄は藩主立花鑑賢。妻は伯父、立花通厚の三女、正覚院。
経歴
[編集]享和元年3月21日(1801年5月3日)に柳河藩江戸藩邸下谷屋敷において出生する。文政4年(1821年)に江戸から柳川に移り、柳川城西三の丸に、屋敷と新知1000俵を与えられて分家し、一門家第3位の立花右京家を創設した。文人として柳川藩で活動したとされる。天保2年7月29日(1831年9月5日)に死去。墓所は福厳寺 (柳川市)。
参考文献
[編集]- 「三百藩家臣人名事典7」(新人物往来社)