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移剌蒲阿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移剌 蒲阿(いらつ ほあ、? - 1232年)は、末の軍人。契丹人[1]

経歴

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第二次対金戦争でモンゴル軍を相手に活躍した。1230年ドゴルク・チェルビ率いるモンゴル軍が陝西方面に進出すると[2]紇石烈牙吾塔らとともに大昌原の戦いでモンゴル軍を撃退する功績を挙げている[3][4]

三峰山の戦いで敗れ、開封に向けて脱出しようとしたが捕虜となり、その後、降伏するように説得されたが、金の大臣として金の国内で死ぬべきであるとしてこれを拒み、1232年7月に処刑された[5]

脚注

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  1. ^ 『金史』巻112列伝50移剌蒲阿伝,「移剌蒲阿、本契丹人、少従軍、以労自千戸遷都統」
  2. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「二年庚寅……朶忽魯及金兵戦、敗績、命速不台援之」
  3. ^ 『金史』巻111列伝49紇石烈牙吾塔伝,「紇石烈牙吾塔、一名志。……[正大]七年正月、戦于大昌原、慶陽囲解。詔以牙吾塔為左副元帥、屯京兆」
  4. ^ 『金史』巻112列伝50移剌蒲阿伝,「移剌蒲阿、本契丹人。……[正大]七年正月、戦北兵於大昌原、北軍還、慶陽囲解。詔以訛可屯邠州、蒲阿・牙吾塔還京兆」
  5. ^ 海老澤哲雄『http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac//repository/all/15110/KJ00005097220.pdf』モンゴルの対金朝外交、209,216頁http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac//repository/all/15110/KJ00005097220.pdf2021年5月17日閲覧