神保武周
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神保 武周(じんぼう たけちか[1]、正徳5年(1715年) - 明和5年11月3日(1768年12月11日))は江戸時代の旗本。系図上は神保氏張の子孫であり、神保氏一系の当主である。この神保家は神保町という地名の由来になった家柄である。
通称は幸三郎、宮内、隼人[1]。法名は道徹。[1]。父は小尾信武(武周は三男)、母は伊丹康之の娘、養父は神保氏秀[1]。妻は神保氏秀の養女(実は神保氏壽の娘。つまり、氏秀の妹である)。[1]。子は武甫、陳俊、貞正、武利、勝嘉、武貞、ほか19人[1]。
元文5年(1740年)、家督を相続し、徳川吉宗に御目見する。寛保3年(1743年)には小姓組に列する。延享3年(1746年)の正月、命を受けて稲生氏英と共に畿内各国を視察、宝暦3年(1753年)に辞職する[1]。宝暦8年(1758年)に御書院番となり、宝暦11年(1761年)に辞す[1]。明和5年(1768年)に死去、54歳没[1]。
参考
[編集]- 「寛政重脩諸家譜. 第7輯」(1923年)