石川長貞
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時代 | 室町時代 |
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別名 | 八郎左衛門尉 |
戒名 | 正寿 |
官位 | 佐渡守 |
主君 | 一色詮範、一色満範、一色義範 |
氏族 | 丹後石川氏 |
子 | 勘解由左衛門尉長祐 |
石川 長貞(いしかわ ながさだ)は、室町時代の武将。姓は石河とも記される。丹後一色氏の家臣。若狭国今富名代官[1]。
概要
[編集]明徳3年(1392年)に一色満範が丹後守護に就任すると、長貞はこれに従った[2]。また、同年の相国寺供養の際には範満の弟・範貞に従っている。
応永6年(1399年)6月に、若狭国今富名代官であった小笠原長春が丹後守護の一色詮範・一色満範との抗争に敗れ、与謝郡石川城で自害させられると、長春に代わって今富名の代官に任じられた[1]。
満範が守護の時代には、在京奉行の筆頭として活動した[1]。
代官職は応永20年(1413年)1月に子の勘解由左衛門尉長祐へと譲られた[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 河村昭一『南北朝・室町期一色氏の権力構造』(戎光祥出版、2016年)