王茲棟
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王茲棟 | |
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『省政彙覧』第7輯 安東省篇(1936年) | |
プロフィール | |
出生: | 1882年(光緒8年)[1][2] |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区北鎮県[1][2] |
職業: | 軍人・官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 王茲棟 |
簡体字: | 王茲栋 |
拼音: | Wáng Zīdòng |
ラテン字: | Wang Tzu-tung |
和名表記: | おう しとう/おう じとう |
発音転記: | ワン・ツートン |
王 茲棟(おう しとう/おう じとう、1882年 – 没年不詳)は中華民国の軍人、満洲国の官僚。中華民国時代は奉天派の一員として馮徳麟や汲金純、張景恵の参謀長をつとめた。満洲国時代は行政官に転じている。字は卓忱[1]。
事績
[編集]清末に日本へ留学し、陸軍士官学校工兵科第9期を卒業した[1]。中華民国成立後の1916年(民国5年)8月28日、陸軍第28師(師長:馮徳麟)参謀長に就任した。翌1917年(民国6年)、馮徳麟は張作霖に反抗して失脚し、11月に汲金純が後任の第28師師長となったが、王茲棟はそのまま同師参謀長に留任している。12月14日、王は陸軍歩兵上校の位を授与された[3]。
1919年(民国8年)3月25日、王茲棟は第28師参謀長を辞職する。1920年(民国9年)11月22日、察哈爾都統署(都統:張景恵)参謀長署理兼軍務処処長に任命された。1921年(民国10年)2月12日、陸軍少将位を授与される。1922年(民国11年)3月15日、察哈爾暫編陸軍第一混成旅旅長に任命された[3]。1925年(民国14年)、東三省陸軍整理処総務処長となり[1][2]、1927年(民国16年)5月3日、陸軍軍学編輯局局長に転じた[3]。
1932年(大同元年)の満洲国成立後に、王茲棟は奉天省公署参事官兼情報処長となる[1]。1934年(康徳元年)12月1日に安東省長、1937年(康徳4年)7月1日に錦州省長と歴任した。1938年(康徳5年)7月27日に錦州省長を退任し[4]、それからまもなく満洲航空株式会社副社長に転じた。1943年(康徳10年)時点でも、副社長に在任していることが確認できる[2]。
1944年(康徳11年)以降における王茲棟の動向は不明である。
注
[編集]参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
満州国
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