「豊田正作」の版間の差分
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夫人はその言葉のとおりにして美酒とおいしい肴を出した。豊田は大いに喜んで、再三これに感謝して飲食すること一日中息まなかった。それ以来日々このとおりで一日も酒と肴を備えないことはなかった。豊田はいよいよ喜んで、その酒と肴に飽きる事を楽しみとし、あえて村の中に行かなくなった。心のよこしまな民はしばしば来たが、豊田は酒に酔いつぶれて言語が明瞭でなく、心がよこしまな民もこのために謀りごとを合わせることができなかった。先生はこの時に当って、専ら村の中に力を尽し貧困に苦しんでいる民をいたわり、荒れ地を開き、およそ旧復の事業、夜に日を継いで心をこめて実行された。 |
夫人はその言葉のとおりにして美酒とおいしい肴を出した。豊田は大いに喜んで、再三これに感謝して飲食すること一日中息まなかった。それ以来日々このとおりで一日も酒と肴を備えないことはなかった。豊田はいよいよ喜んで、その酒と肴に飽きる事を楽しみとし、あえて村の中に行かなくなった。心のよこしまな民はしばしば来たが、豊田は酒に酔いつぶれて言語が明瞭でなく、心がよこしまな民もこのために謀りごとを合わせることができなかった。先生はこの時に当って、専ら村の中に力を尽し貧困に苦しんでいる民をいたわり、荒れ地を開き、およそ旧復の事業、夜に日を継いで心をこめて実行された。 |
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数年の後、豊田はついに自ら反省して自らを責め、ざんげして前非を改め、復興の道を勉励するに至った。ここにおいて豊田の有益もまた少なくなかった。実に先生の徳化のしからしめるものと感じいる次第である。」 |
数年の後、豊田はついに自ら反省して自らを責め、ざんげして前非を改め、復興の道を勉励するに至った。ここにおいて豊田の有益もまた少なくなかった。実に先生の徳化のしからしめるものと感じいる次第である。」 |
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== 江川太郎左衛門との関係 == |
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配下の韮山の商人と管轄地の大磯の商人等が、二宮尊徳翁の指導を受けて、傾いた身代を復興させたことを知り、翁の一門数名が韮山の商人宅に立ち寄った時に、翁と豊田正作とを招待し、数日に亘って懇談している。 |
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2021年9月14日 (火) 09:12時点における版
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛政4年 |
死没 | 安政4年1月4日(1857年1月29日) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 大久保忠真 |
藩 | 相模小田原藩士 |
妻 | トヨ |
子 | 虎治 |
豊田 正作(とよだ しょうさく、1792年(寛政4年) - 1857年1月29日(安政4年1月4日))は、二宮金次郎(二宮尊徳)とともに、報徳仕法を行い、野州桜町や小田原藩内の村々を復興させた小田原藩の武士で地方役人。
生涯
諱は邦胤江戸生まれ(尊徳より4歳年下)
1827年12月(文政10年)(35 歳)、勤番で野州桜町に赴任(代官として)したが、尊徳の成功を望まない上司の指嫉があったらしく、ことごとに仕法を妨害し、領内を提乱させた。
その後、混乱させた責任を取るため江戸に召喚され、案に相違して冷遇を受けた正作は、初めて己の愚を悟るとともに、次第に尊徳への畏敬の念をたかめ、鵜沢作衛門らをつうじて随身を希望するにいたった。
1835年2月(天保6年)(43 歳)念願かない桜町勤番となり、以後7年間、江戸·小田原への随行を含めて、懸命に尊徳を補佐する。
1840年(天保11年)伊豆韮山の韮山代官江川太郎左衛門英龍の書簡により、二宮金次郎とともに招かれて出張し、田方郡多田弥次右衛門の一家再興の方法を講じ1380両貸付け、数日滞在し仕法を立てる。 1841 年(天保 12年)(49歳)尊徳が幕府に登用されると報徳方の勤番を命ぜられ、やがて小田原に赴任する。このころ御徒目付となる。その後山崎金五右衛門らとともに、仕法を推進しようとしたが、畳お気にて挫折。失意の晩年となり、小田原報徳社の世話をする程度にとどまる。[1]
報徳記
「小田原の役人豊田正作という者は性格がはなはだ剛奸で先生の徳行を嫌ってその事業を妨げた。先生の処置する所はことごとくかたよって道理に合わない論でこれを破り、村の中に出れば、
「この件を二宮が命じたといっても、私はこれを許さない、速やかにこれを止めよ、私の言葉に従わなければ必ずお前たちを罰しよう」と言った。
村民は恐れて先生の指揮に従わなかった。豊田は常に先生のすぐれた事業を破ることをもって心とした。
このために悪い心をもつ民はこれに諂って、ともに良法が成就しないことをもって愉快とした。それだけでなく良民を退け、心がよこしまで人にへつらう人を表彰し、3村を勝手きままに歩き回り、大酒を飲んで、口を極めて先生を嘲った。
先生は大変これを憂慮して、あるいはおだやかでやさしい言葉でこれ諭し、あるいは正しい言葉でこれを導き、仕法を妨げることが無いようにさせようとこころをはたらかせても、更にこれを用いないで、ますます不平を懐いて、再興の道を妨げた。先生は日夜艱難辛苦して復興の事業の成果をおさめようとされた。
豊田は日夜肝胆を砕いてこれを破ろうとした。
先生はすでに豊田を善に帰せしめようとして力を尽されたがどうにもできなくて、大きくため息をつかれて言われた。
「彼は小田原10万石の力でどうすることもできず、私に所属させれば必ず善に帰するであろうとこの地に出した。もし位格を去って、その後に、我に所属させれば私がこれを善に導くことは難かしいことではない。しかし位格が私より上にいて、この地に来させた。
このために私を目下に見て事業を妨げ、下民もまたその言葉に随って、ともに仕法を破る事を計画した。これを直そうとして歳月を送るならば、私はこのために事業を廃止してしまう。やむ事を得ない、彼の好む所によってこれを処理するのがよいだろう。」と。
ひそかに歌子夫人に命じて言った。
「彼は生来おおいに酒を好む、朝起きるのを待って酒と肴(さかな)を備え彼に告げて言いなさい。『あなたはこの地に到着して以来、実に村の中のために骨折られていること容易ではありません。せめては一杯を飲んでその疲れを補いください』と、金次郎が私に命じて村の中に参りましたと。酒と肴が尽きた時は別に備え置いて、またこれを出しなさい。
一日中酒と肴を絶ってはならない。これもまた仕法を成就させるの一端である、必ず過ってはならない。」と。
夫人はその言葉のとおりにして美酒とおいしい肴を出した。豊田は大いに喜んで、再三これに感謝して飲食すること一日中息まなかった。それ以来日々このとおりで一日も酒と肴を備えないことはなかった。豊田はいよいよ喜んで、その酒と肴に飽きる事を楽しみとし、あえて村の中に行かなくなった。心のよこしまな民はしばしば来たが、豊田は酒に酔いつぶれて言語が明瞭でなく、心がよこしまな民もこのために謀りごとを合わせることができなかった。先生はこの時に当って、専ら村の中に力を尽し貧困に苦しんでいる民をいたわり、荒れ地を開き、およそ旧復の事業、夜に日を継いで心をこめて実行された。
数年の後、豊田はついに自ら反省して自らを責め、ざんげして前非を改め、復興の道を勉励するに至った。ここにおいて豊田の有益もまた少なくなかった。実に先生の徳化のしからしめるものと感じいる次第である。」
江川太郎左衛門との関係
配下の韮山の商人と管轄地の大磯の商人等が、二宮尊徳翁の指導を受けて、傾いた身代を復興させたことを知り、翁の一門数名が韮山の商人宅に立ち寄った時に、翁と豊田正作とを招待し、数日に亘って懇談している。
- ^ (尊徳門人聞方集参照)