「宮原忠英」の版間の差分

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'''宮原 忠英'''(みやばら ただひで、[[1818年]]([[文政]]元年3月) - [[1885年]]([[明治]]18年)7月)は、[[幕末]]の[[旗本]]、明治期の[[官吏]]。[[大宮県]]知事。[[仮名 (通称)|仮名]]は中務。
'''宮原 忠英'''(みやばら ただひで、[[1818年]]([[文政]]元年3月) - [[1885年]]([[明治]]18年)7月)は、[[幕末]]の[[旗本]]、明治期の[[官吏]]。[[大宮県]]知事。[[仮名 (通称)|仮名]]は中務。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[御徒]]組頭の河野彦左衛門の子として生まれ、[[天璋院]]広敷添番宮崎勝次郎の養子となり宮崎達郎と名乗った。1860年に家督を継いで[[天璋院]]広敷添番となり、まもなく[[久美浜代官所|久美浜代官]]に転じそこで[[明治維新]]をむかえる。新政府に恭順を示した後、[[奈良府]]判事と[[大宮県]]知事をそれぞれ短期間務めるが、その後の足取りは不明である。
[[御徒]]組頭の河野彦左衛門の子として生まれ、[[天璋院]]広敷添番宮崎勝次郎の養子となり宮崎達郎と名乗った。1860年に家督を継いで[[天璋院]]広敷添番となり、まもなく[[久美浜代官所|久美浜代官]]に転じそこで[[明治維新]]をむかえる。新政府に恭順を示した後、[[奈良府]]判事と[[大宮県]]知事をそれぞれ短期間務めるが、その後の足取りは不明である。<ref name="岸2003">{{cite journal|author=岸清俊|year=2003|title=職員履歴と達書にみる大宮県の成立とその展開|journal=文書館紀要|volume=16|pages=38-64|url=https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/129}}</ref>


『香取郡誌』によれば[[吉田村 (千葉県)|吉田村]](現・[[匝瑳市]]吉田)の生まれで、幼名登一郎。[[東叡大王|上野輪王寺宮]]に[[右筆]]として仕えたのち旗本に転じたとある。
『香取郡誌』によれば[[吉田村 (千葉県)|吉田村]](現・[[匝瑳市]]吉田)の生まれで、幼名登一郎。[[東叡大王|上野輪王寺宮]]に[[右筆]]として仕えたのち旗本に転じたとある。<ref name="香取郡誌">[{{NDLDC|965696/390}} 香取郡誌] - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー</ref>


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== 参考文献 ==
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*{{cite journal|author=岸清俊|year=2003|title=職員履歴と達書にみる大宮県の成立とその展開|journal=文書館紀要|volume=16|pages=38-64|url=http://www.monjo.spec.ed.jp/?action=common_download_main&upload_id=515}}
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2021年5月27日 (木) 16:52時点における版

宮原 忠英(みやばら ただひで、1818年文政元年3月) - 1885年明治18年)7月)は、幕末旗本、明治期の官吏大宮県知事。仮名は中務。

略歴

御徒組頭の河野彦左衛門の子として生まれ、天璋院広敷添番宮崎勝次郎の養子となり宮崎達次郎と名乗った。1860年に家督を継いで天璋院広敷添番となり、まもなく久美浜代官に転じそこで明治維新をむかえる。新政府に恭順を示した後、奈良府判事と大宮県知事をそれぞれ短期間務めるが、その後の足取りは不明である。[1]

『香取郡誌』によれば吉田村(現・匝瑳市吉田)の生まれで、幼名登一郎。上野輪王寺宮右筆として仕えたのち旗本に転じたとある。[2]

履歴

  • 万延元年10月(1860年) - 天璋院広敷添番
  • 文久3年4月4日(1863年5月21日) - 静寛院宮用達・天璋院用達
  • 元治元年6月4日(1864年7月7日) - 丹後久美浜代官
  • 慶応4年=明治元年
    • 1月14日(1868年2月7日) - 福知山藩士に対し恭順
    • 8月8日(9月23日) - 奈良府判事試補
    • 8月23日(10月8日) - 奈良府権判事
    • 9月17日(11月1日) - 奈良府判事
    • 10月3日(11月16日) - 宮原中務と改名
    • 10月8日(11月21日) - 従五位下
    • 11月10日(12月23日) - 奈良府判事免職、位記返上
  • 明治2年
    • 1月4日(1869年2月14日) - 弁事
    • 1月10日(2月20日) - 徴士・武蔵国知県事
    • 4月9日(5月20日) - 大宮県知事免職

参考文献

  1. ^ 岸清俊 (2003). “職員履歴と達書にみる大宮県の成立とその展開”. 文書館紀要 16: 38-64. https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/129. 
  2. ^ 香取郡誌 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー